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3月16日気仙沼入港予定だったんですが、3月11日に震災が発生したでしょ。その3日前ぐらいに大きな地震があったんですが、そん時は県の担当者から「津波もないし、みなさんの家庭は大丈夫ですから」って連絡が来たんです。だから、最初は「どうせ大したことないんだべ」って思ってた。でも、「横須賀にいる自衛隊の船が全部、東北に振り向けたみたいだよ」って周りの人が言っているのを聞いて、「これは大きそうだな」と思って・・。通信長が「メールが24時間使えるし、電話をかける人は電話かけてもいいし、とりあえず家庭とすぐ連絡とってくれ」って言うんです。
地震発生時は、船が震源地の後ろの方にあったから、震源地のそばにいた海上保安庁の船が津波に乗ったようなことはなかったです。津波に遭ってたら、海面が、どーんと上がったでしょうからね。日本の太平洋側だけじゃないんだよね、津波が来たのは。ハワイ島の方にも来て、小さい小舟がひっくり返ってたそうです。ホノルルなんかも1晩中津波の危険を呼びかけるサイレンが鳴ってたっていうもの。その後1か月ぐらいは、ホノルルの方も観光客は日本からもどこからも、まるきり来ないって言ってました。
3月11日、実習船は、日本に近づいていました。あと3日か4日で入れる位置まで来てたからね。でも、気仙沼には入れないし、行く場所ないし、連絡つかないし。電話をかけても通じない。船は3月の18日にあの神奈川県の三浦市の三崎港に入ったの。そこでとりあえず漁の水揚げをしました。
その後も、家にも連絡がつかないから、私は東京の妹んとこに電話して、次の日に、妹の旦那さんの方が三崎まで来てくれたんです。そのときに、彼に「現実を見てください」ってこう言われて、持ってきた衛星写真を見せられたの。「南三陸町は現在このような状況ですから」って、グーグルのやつさ。もう何もないんだもんね。あらーっと思ったのね。津波で流されて、町が無いにしろ、家族と連絡がつかないことが、やっぱり精神的に打撃が大きかったですね。ようやく連絡がついたのは、4月のはじめ頃だったと思います。自分の兄弟やいとこが「試しにかかるかな」と思って電話をかけたときに自分が出て、「こっちもガソリンも手に入んないし、道路も通行止めで動くに動けない。あと、避難所まわってみるから」とだけ伝えました。電話はそれきり来ないんです。バッテリーが切れちゃうと充電できないですからね。
動けない期間、ずっと沿岸に停泊させた実習船にいたんです。ご飯も食べられるし。いろんな人が船に来ましたよ。小泉進次郎、井上康生。横須賀海軍カレーとか、色々支援物資持って来てくれたけど、物資の代わりに、故郷に帰してくれという気持ちでした。
妹や親戚は、被災地と離れた名古屋などにいましたし、現地との連絡を取るにしても名古屋にかけてもしょうがないんだけど、情報を探ってもらうには頼むしかない。そうやって連絡を取り合ってるうちに、3月は電話代5万円も取られました。
三浦三崎港には、震災直後の3月15日以降、母港に帰着できなくなった水産高校実習船が次々と入港し、漁獲したマグロを岸壁で水揚しました。宮城県所属の『宮城丸』、福島県所属の『福島丸』、青森県所属の『青森丸』、秋田県所属の『船川丸』の計4隻でした。今年の1月下旬に宮城丸は石巻港を、福島丸は小名浜港を出港して、ハワイ沖合にてマグロ延縄漁業の実習操業と海洋観測に従事、帰港する途上でした。
気仙沼線が通っていたんだけど、津波でその陸橋も砕け散っちゃったし、道路も寸断されて、家も基礎だけ残して、何から何までみんな流していっちゃった。見てみるとわかると思うけれど、本当にあそこまでなっちゃうのかなと。
残ったところは、砂が20~30センチも溜まっちゃって全然使えないし、ガレキがものすごいんで、片づけて、歩けるようになるまでに2~3カ月かかったんです。だから、みんな避難所に避難していたんです。
私たちは家は津波ではやられなかったけれど、2回目の4月7日の地震の時に、揺れが少し強くて、古い家だからちょっとずれてしまった。大規模半壊ってやつ。役場の人が4人くらい見に来てくれて、罹災証明書もいただいて、色々とお世話になったんだけれどね。
そのときに、ウチの奴がこのままじゃダメになるから、おかしくなるからって避難所に行きました。支援物資も避難所には来るのだけれど、ウチみたいに家が残ったところにはなかなか来ないんです。だから、避難所にもらいに来ていたんだけれど、いい顔されないんですよ。炊き出しを食べに来るのは良いけど、物資をもらいに来ると、「避難所が優先だ」と言われて、そういったことが厳しかった。
そんなときにあるボランティア団体が、避難所では物資が行き届いたんで、今度はウチみたいに家が残っているところで困っている人がいるのではないか、ということで来てくれた。そして、水だとか支援物資を持ってきてくれて、定期的に電話をくれて、また様子を見に来てくれたりして助かったんです。
それまでは水が本当に不便で、20リットルのポリ容器を5つくらい買って、消防署やはまなす(老人養護施設「はまなすの丘」)の方にある自衛隊の給水場所に車で行って運んでいたのね。それが終わると、蕨野(わらびの。気仙沼市本吉町)に自然の山からの湧水が流れる水道管がある、とそこを紹介されて、今度はそこに汲みに行って。もう1日おきなので重労働でした。重い容器を家の中に入れるのも大変。肩、腕、腰と、おかしくしちゃってね。でも、やんなきゃいけないからね。重すぎて持てないから、ウチの奴にやれとも言えないし、大変な思いをしました。
ついこの間、やっと水が通りました。電話が一番最後で、1カ月前くらい前に通りましたが、その2週間前くらいが水だったの。
3月11日2時46分、あのときから、津波のことは、ずっと脳裏に刻まれてるんですよ。
私の家はちょっと高いところにあったんで、「津波が来たって家までは来ないから大丈夫だ」ってことで、安心してたんですよ。
地震が起きて、妻は車で外出して家に戻ってきましたが、その途中、ゴオーっと言う音や、ビシビシビシっていう雑音が聞こえてきたんだそうです。それで「これはただごとじゃねえ」ってことで、私たちがサンダル履いて外へ出てみたらですね、すぐとなり50mくらいの距離にある公民館や民家の屋根の方が盛り上がって来たんですよ。津波が来ていたんだね。
「あれ、津波だ、こりゃ大変だ」すぐそこまで来てるってことで、座布団1枚頭に被って、着のみ着のまま、そこの崖を上がっていったんですよ。ちょうど雪が降ってまして、足元が滑るんですよ。ベロベロ、ベロベロ。妻が先に上の方まで逃げて行ったんですが、私はサンダルがずるずるずるずる滑って、しまいに無くなってしまって、探そうとしているところに水が来たんです。
「ややや、こりゃ大変だ」ってことで妻が、上の方から「掴まれ」と手を伸ばしてくれて、私掴まったんですよ。瀬戸際で力が出たんですね。上に上がったところに水がわんわん、わんわん来た。命拾いしたんです。もしあの時一緒にふたりでズルズル滑っていたら、2人とも津波にのまれてさよならだったなって、笑い話にしてるんです。
その後、最初はここの「はまなす」っていうところに1カ月ぐらい避難しました。それからここは事業所で公的な建物ではないということで、あと、ここから車で15分くらいの距離の岩手県津谷川の、閉校した学校の建物に集団で移りました。避難した時には、電話もなにも、通信手段がなく、自分の携帯も津波で流してしまっていました。
また、小泉八幡神社や、私自身の歴史についての記録が自宅にあったのですが、着のみ着のままで逃げたものですから、流されてしまって無いんです。そのことがいつも頭にあるんです。多賀城の資料館にいくらか神社の資料があるんではないかと思っているんですが・・。流された資料は誰が書いたかわかりませんが、漢文で、小泉八幡神社の神職を務める山内家と言うのは、明治5~6年より前は藤原姓を名乗っていた、それで明治何年かに山内姓を名乗ったって、と書かれていたんです。私もそれを見つけて何枚もコピーはしてたんです。それをそっくり一緒にしてたもんですから、全部流してしまいました。
震災の日は、長女は仙台におりましたけども、次女の方が気仙沼の、南郷って、一番水が来る場所に家があって、そこにいる孫は当時小学校の6年生だったんです。小学校の校長が偉かったんですね。子どもは全部校舎に入れろと指示を出して、校庭を出てった小さい学年の子どもも全部校舎の中に入れて、3階に上がらせたんですね。学校は3階建てて、その上は屋上でした。
その近くが、すぐ気仙沼湾。火出た、その近くなんですよ。子どもたちは暗くはなるし、火は出てくるし、真っ暗になるし、泣き喚いたんでしょうね。次女は、娘が小学校にいるってわかってるわけです。自分は高台の高校にいて、娘は狭くて、低い危険な場所にいるので、連れていきたい、呼びに行きたいと思っても、津波が来てるから行けないんです。夕方から朝まで泣きどおしだったそうです。
娘の方も、母親のいる場所はわかっているけれど、行きたくっても行けないんだね。次の日の朝は水が引けていたので、自衛隊が来て、孫は自衛隊におんぶしてもらって母親のいる高校に連れて行ってもらい、再会できたんです。
私の妹は歌津に嫁いでいて、なんとも無かったんです。それで、妹の家からバッテリーだ、車だ、って借りてきて、下の避難所に貸していました。それに、ウチは歌津のお客さんが多かったから、いろいろな情報が入ってくるんです。聞くと、歌津と小泉では様子が違う。あっちは支援物資が来たのはみんなで分けて、食べる物も支援があって、ご馳走になって・・・って聞くんです。
ところが、ここは、私たちが入った時点で200人の食事を私たちが作って食べて、いろんな物資は来るけど「ありがとうございます」って頭を下げてもらって、そのまま上の体育館に上げさせられるんです。水も上。ペットボトルに入った水じゃなくて、四角い箱に入った下で開けるタイプの水も全部。だから、水を飲む時は自衛隊が持ってきてくれたタンクの水を飲むんです。凄い塩素臭くて、コーヒーの味も「変だよね?」って言うくらい。公民館の館長さんがリーダーっていうか、その人の指示で避難所は動いていました。
私たちがいた避難所には小学生、保育所の方々、中学生高校生、地域の方々と幅広い年齢層の方が集まっていました。幸い、子どもたちは校長先生の的確な判断ですぐに避難して、1人も流されなかったのです。
その日、PTAの役員会があったことも幸いしました。避難所では、大人どうしが集まると、津波についてやっぱりしゃべるわけです、ああだった、こうだったと。そうすると、小学校低学年くらいの子どもが怒って「言うな」って言うんです。彼等も津波というものを自分たちの目の前で見たんですね。だから、大人がその話をすると耳を塞いで、「言うな言うな」って。
日本人として生まれて良かったと思ったのは自衛隊の人の来た時ですね。同じ日本人が助けに来て良かったと思いました。あとはアメリカ空軍の方々、あれには助かりましたね。ただ、言葉が通じないのが非常に残念で、英語も少し勉強すれば良かったと。食べ物は身振りで通じますが、避難所で「女性の下着がないから、なんとかして」と言われた時は困りました。アメリカ兵に「ブラジャー」と言っても通じなかったんです。それで、サイズを表すBのなんぼとか、Fのなんぼとか行ってみたら、「OK、OK」と言って理解してくれました。
米軍のヘリが救援物資を持ってくるのに、名足小学校の校庭にヘリポートを作って、そこに来た救援物資を、われわれの地区だけでなく、周りの地区にも分配していました。隣の地区の人が、自分たちの地区にヘリポートのHの字を描いたら、今度は米軍のヘリがこっちにまったく来なくなり、「隣に見に行って見っぺさ」と行ってみたら、隣の地区にばかり降りていました。物資がそちらに行ってしまったんです。そういうことがありましたね。
その救援物資は、食べ物も生ハムとかジャムとかパンとか、アメリカの人が食べるものだからさ、食べ慣れないものでした。それを半分ずつに切って。
うまかったなぁ。でも、来る日も来る日も、一生分くらいパンを食べました。それからカップヌードル。もう沢山という位で、あれから私はパンを食べていません。後になると野菜などの生ものも支援物資が来て、ありがたかったですね。
山に逃げて助かると今度は、地区の施設に行く途中に木の間に挟まっている人がいるというので、チェーンソー持って来て、切って助け出したんです。途中で2、3人の人を助け出したんですが、怪我をされていて、今でも助かったどうかは分かりません。まさに地獄でした。夜は、雪で寒かったですし。
自宅に戻ったのは翌日でした。
山を降りて道路に出ると、向こうからアメリカ製のジープのような車が来たんです。運転していたのはガタイの良い男の人で、「乗っけてくんねえか?」といったら「いいですよ」と言って乗せてくれました。
その人が「私たちも歌津地区に行こうと思ってたんです」というので、よくよく話を聞いてみたら、「坊主ですから」って。その方は和尚さんだったんです。ぱっと見ただけではそんな風には思えない人だったんですよ(笑)。歌津のお寺が流されたという連絡を受けて来たということでした。タイミングがちょうど良かったんです。
それで乗せていただいて自宅に戻ることができました。自宅は流されませんでしたが、浸水して、またいつ何時津波が来るか分からない状況だったので、家族は名足保育園の避難所にいました。私は津波が来る前の最後の電話で、女房に「慈恵園にいる」って連絡して、それから家族と音信不通になっていました。だから、慈恵園が流されたと知り、家族はもうダメだって思ってたんでしょう。避難所に私が現れて「おい」って言ったらびっくりして、「ああ、生きてたのか!」なんて(笑)。
そこから、避難所の方々も食べていかなければならなかったので、家が残った方がたのところに米があったから米を持ってって、食べてもらいました。白米は少なく、玄米の状態でしたので、昔の家庭用の脱穀機を引っ張り出してきて、それで白米にして持っていって食いつなぐ、という状況でした。
私は毎日のように朝早く避難所に行って、夜遅く自宅に戻って、という生活をしていました。みなさんの要望聞いて昼間は避難所に行って物資を運ぶなど、いろんな用件を受けていました。要望はいろいろありますから。ところがガソリンが無いですから、車を使うような要望には困りました。
一番困ったのは津波に流された方のご遺体が見つかっても、それを火葬場まで運ぶガソリンが無かったことなんですよ。自衛隊から、ガソリンがないから、ディーゼル車を借りようということになって、2トン車のディーゼル車があったわけです。乗用車のバンだと、1体ずつしか運べないけれど2トン車だと複数運べるのです。燃料は軽油です。
次はこの軽油をみんなでなんとかしようと。それで、トラクターなどの農機具から抜いて、車に入れて、ご遺体を運んで火葬することができたんです。それはほんとうに情けなかったね。花一輪ないんですから。何にもない。可哀想でしたね・・。
昔からの井戸が自宅の下の方にあったんですが、4月7日ごろの2回目の地震で、水質が変わってしまって塩っぱくなって、飲めなくなったんです。海のそばだから管に亀裂か何かが入って、そこから海水が入ったんではないでしょうかね。今はもう塩気も薄くなりましたが、当時は洗濯に使うと乾くと塩が出るほどでしたね。
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