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私が子供の頃、うちでは米、大麦、大根、白菜を作ってました。家で食べる分を採って、残りを農協に売って。私が生まれたこの辺の人たちは、食べる分は自分とこで採ってたんじゃないかと思います。
海のものも豊富でしたからね。自給自足できる感じですね。海藻、アワビ、ウニ、あとはタコ。そういうのがいっぱい、獲れたんですよ。ええ、ごちそうです。
味噌は、小鯖に嫁に来た頃はずっと家で作ったの。豆を煮てね。親類でカツオ製造する家があって、カツオ煮る窯で豆を煮てもらって、そして手で回して潰して、塩入れて、麹は入れたったかなあ? そうして作ったんです。ここ結んで、藁でこうくるんで、こうぐってそして炉さつるしてね、カビが生える。そのカビがいいんだ。私は笹浜の実家にいる時から見てきたから、わかってんだぁ。味噌は秋に豆がでるから、仕込みは秋でしたっけかね。
家で作らなくなってからは、最近までは気仙沼で作って貰ってたんですね。子どもたちが、「仙台の住民は仙台味噌ってやるのに、なんで唐桑から味噌もって行く。いらない」って誰も食べないから、いまは家でも近所で買って食べるの。生協さんが持ってきてくれるし、お店でどこでも売ってるからね。
お茶も作ってましたしね。囲炉裏に炭をおこしてね。四角な入れものに、何枚も何枚も厚く紙を貼ってね。そこに蒸したお茶の葉を入れて、炉の上で蒸気を飛ばしながら揉んで、カラカラになるまで水分を飛ばして、作ってましたよ。新芽がでたころね。5月かなあ。今はそんなこと、する所どこもないけど。
とにかく、自給自足でしたからね。どこの家でもね、田はあるし畑はあるし、小漁にいって父親とか兄たちは魚獲ってくるしね。ホヤ、アワビ、ウニ、そういうのを食べて育ってね。骨のうるさい魚でも、アワビでも何でも好きだから、「なんぼでも食べろ」って、アワビなどは、周りの固い所を包丁で取って真ん中ばり(だけ)食べました。なんぼ好きでも、2個も3個も食べれば飽きてしまうから、もらって行くからって、むき身をポケットさ、いっぱい入れて持って帰って来たもんだ(笑)。今なら、買えば1個1000円以上するもんね。
梅干をつけるのにね、家のお姑さんが、「梅は、毎年なるもんでないから、今年なったらいっぱい漬けなさい」と。「来年はなんないかもわかんないよ」って。
私が子どもの頃は、今より雪が多かったので、ちょっとした坂なんかは、ソリを使って滑っていましたね。それから、もっと面白い遊びはこうです。田んぼに水が張っていると、寒さも厳しかったから、氷が張るわけです。そこをスケートするんです。今のようなスケートじゃないんですよ。走るの(笑)。
スケートって言っても、昔はね、スケート靴を持ってる人なんてよほどの財閥ですよ。それでね、私たちは長靴に足駄(下駄に似ているが下駄より歯の高さが高く、鼻緒が前寄りにつけられ、
引きずるように履くのではねが上がらなかった)を組み合わせてやったんです。
まず、足駄(あしだ)っていうのはね、底が下駄と違って丸くなってるんです。この丸くなったところに、スケートの刃が入るわけです。鎹(かすがい)ってあるでしょ。「子は鎹」の。それをここにブツ(打つ)わけです。長靴に下駄の緒を結わえてくっつけます。下が鎹だから、溝もなにもないんです(笑)。
だから足で踏ん張るわけにはいかないわけで、スキーみたいに、杖もつくんです。杖は竹に古釘の細い釘を刺して作りました。
子どもは作り方は自然と覚えるもんです。みな自分で考えて自分で作り出すんですよ。簡単だから。そんな風にちびた足駄の歯を抜いては作り、凍った田んぼや池に行ってはスケートするんです。面白い遊びでしたよ。
中には排水されて水のない田もあったんですよ、そこをスケートしたさに、「凍らすべ」って、自分たちでわざと掘をせき止めて水を入れて。怒られるわね(笑)。
スキーなんかも、竹を割って、火であぶって曲げた竹スキーってやつを、子どもたちはみな、自分で作りました。竹馬だって全部自分で作る。なにせ売ってないから! 竹馬はね、誰でも作れるんです。
昔はコマも作りましたが、わりあい簡単なんですよ、あれは。材料は「いなご」というクリの木で、稲を乾かすときにかける「ほんにょ」に使う木ですが、それを切って作ります。ただ器用でないとね。学校でも本当は作らせればいいと思うんですが、怪我させるのを怖がって作らせませんね。私たちは、小刀やノコギリやナタでもなんでも、平気で使っていました。
夏の遊びもいろいろですよ。旧迫川(はさまがわ)で水遊びです。今みたいに綺麗な川ではありませんでしたし、学校の生徒1クラスの30人も40人もの生徒がいると、砂だらけ、泥だらけになってるのね(笑)。今は汚染物質だなんだって言って泳げないけど、当時は各浜にみな海水浴場があったんです。志津川あたりでは、荒島(ありしま)だの、防波堤の外で泳いだものです。昔の人たちは、少々のごみなんか、なんとも思わないんです。川だって泥水でもいいんだから。そのぶん、みんな丈夫でした。
今はなんでも売ってるから、買ってくれば用が足せるけれど、昔は遊びの道具は、こんな風に自分たちで作ったんです。
戦争当時は、男の人手が足らないっていうんで、子どもたちから女の人たちまで、「なければないで、なんとかする」、みんなこういう自給自足を日常的にやってきたわけです。だから私たちはいろいろ災害があっても強いんです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
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