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終戦後、登米郡の南方に日立の疎開工場がいろんな機械を持ってきて農機具を造り始めたんですね。そこがいいからって紹介してくれた人がいて、そこで仕事を始め、2年くらい働きました。そのうち、小泉小時代の恩師の千葉ツトムさんが、「学校の先生になってみねえか、試験受けてみねえか」と勧めてくれたんです。「うん、悪くもねえな」と思って(笑)。そして試験受けたら、運よくパスしました。21~2歳ごろでした。当時は、小泉に学制発布で新しく中学校ができたころで、そこへ行きなさい、というわけで中学校の教員になったと。それから40年も経ってます(笑)。
教員になったときの辞令や、履歴書、等級の辞令には給料まで書いてあったんですが、そういうのもみんな津波に流されてしまったので、あまり覚えていないです。初任給はたしか、300円だったかな。
教科は理科でした。それがね、ある方に、「ひとつの教科でしか教員免許状もってないのは『かばねやみ』だ」。つまり、あんまり勉強してねえやつだと言われたんですよ。「バカなこと言うな」って言ったんですよ。「よし、その頑張って他の免許をとる」と心に決めました。そして技術家庭と美術で免許を取りました。その後は主に理科を教えながら、その学校によって人員が足りない時などに技術や美術を担当したりしていました。
最初に配属になった小泉中学校に10何年と一番長く勤めましたが、その当時教え子だった人はほとんどいい年配になっています。その次がお隣の本吉町の津谷中学校に9年ほど勤めました。本吉町の気仙沼市の支所に行くと、教え子が役所についていたりします。で、そこに行くとお茶しようと語られる(誘われる)もんだから、「なんだおめ、仕事しないで駄目じゃねえか」って言うのに、「いいからお茶っこしよう」と言う(笑)。教え子と居るのが一番楽しいですね。
戦争が終わってからは、家に帰って農業をしました。
周りはみんな農家で、いっぱい畑があって、人手がない。昼間も働いて、月夜の時は月の明かりで働いたんだ。月の明かりだけでやったの。私だけでなく、みんながそうでした。
それに、今こそ、機械でやるけっども、昔は耕運機なんてながったから、手だけで作業したの。
この辺は火山灰みたいなとこでないから、柔(やわ)い土やサラサラの土でなくて、粘土ども違って、固いし砂利だし、崩れやすいような土ではないんです。機械なら1時間や2時間すれば終わるのを、幾らも耕せないわけ。だから、ほんとうに重労働だからね。
そういう父も敗戦後は少し変わったかもしれません。とにかく食べて行かなければならないですからね。橋の欄干に通していた鉄パイプも供出してしまって無いような時代で、とにかく物が無い。食べ物も無い。「松根(しょうこん)」と言って松を伐って、松の根から油を採ったんです。結構松を伐採したんです。戦後は、新しく木を植えるどころではなくて、開墾して食べ物を作らなくちゃならない。ウチの親父なんかも、何かに没頭しなければ忘れられなかったんじゃないでしょうか? そんな風に感じるくらい、食べるために必死に働いていました。そういうところから立ち上がってきたんです。あの時代を知っている人間と、今の人たちでは感じ方が違うんじゃないかと思います。
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