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この辺のお祭りは、小泉八幡様のお神輿ですね。9月10、11日にやったんですよね。その神社には、たまたま津波が乗らなかったので、30年ぶりにお神輿を担いだんです。担ぎ手がいないので、最近は人が担ぐんじゃなくて、トラックに乗せて回ってたんですよ。結構重いですし、20人はいないと代わる代わる担げないんです。
だから、ボランティアの人たちにも、今回は助けられたかなと思います。地元の人もみんな喜んでいましたね。
私自身は、子どものころのお神輿の記憶はなくて、父ともそんな話にはなりませんが、たぶん、地元の青年部にいたようなので、お神輿を担いだと思いますよ。
蔵内地区には、子どもたちの虎舞っていう太鼓があって、子どもたちは叩けるんです。
うちの実家のあんちゃん(奥様のお兄さま)は須賀神社の平磯虎舞(天保時代から受け継がれている。打ちばやし独特の勇壮なリズムと繊細な舞いが見もの)っていう郷土芸能で太鼓をやったんですよ。平成3年、それで全国青年大会で最優秀賞を取りました。
祭りの前には、必ず田束山に登ります。神様をお迎えに行くんですね。祭り前日の午後には神社に行って、神輿の担ぎ手は神官に祈祷をしてもらい、神輿に魂を入れてもらう。そして、翌日、祭りの1日目の午後には神輿を出して、45号線をずーっと魚竜館まで行って、神輿をきれいな海の水と塩で清めるんです。昔は違う場所で清めていたと言います。担ぎ手は、口に白い紙を挟み、白装束と地下足袋を履きます。地下足袋も昔は草鞋です。奥さんが妊娠をしている人は担ぎ手にはなれません。
また、祭りの前は、松の枝や竹を切って神輿の歩くところを全部、清めて、各家の前に縄を張る。神輿行列が通る魚竜館から45号線に向かう沿道もず〜っとです。これが、ひと仕事なんですが、伝統だからやらないわけにはいきません。担ぎ手も疲れますから、神輿の休憩所を作り、そこでも軽くお神酒を飲めるようにしておきます。こうした準備が本当に大変なんです。でも、伝統ですからやらざるを得ないんですよ。
祭りの2日目は、朝の10時に、神社から暴れ神輿が降りてきます。私も担いだことがあるけれど、誰も止められないほどの勢いなんですよ。神社の階段の下では、お囃子が流れて獅子が舞うんです。
これは京都からの流れを汲むもので、5つのお囃子を繰り返し演奏する。勇壮な“通り囃子”は、聴くと心がうきうきしますよ。自分も祭りに出たような気になるね。そこに、神社の階段からロープで吊るされた神輿が、だーっと揺れながら降りてくる。これがクライマックスで、最高なんですよ。そして、神輿の列は夕方には三嶋神社の神館に向かいます。神館に近づいたらお囃子と獅子舞が入れ替わり、屋台を先頭にして神輿も神館に入ります。ただね、今回の津波で、この神輿も神館も、みんな流されてしまいました。
地域の祭りは芸能部の役割です。昔は契約会だけで行っていました。太鼓も契約会の子どもしか叩けなかったんですが、だんだん子どもも少なくなったので、いまは伊里前の子どもなら誰でも叩けるようになりました。最近は祭りの運営も子ども会と共同で行うようになっています。
契約会主催の伊里前の祭りは、どちらかというと伝統芸能みたいなものですね。必ず、毎年やるというわけではないんです。原則として4年に1回は開催しますが、今年の祭りをやるかどうかは、春に町のみんなで決めます。たとえば、契約会の会員に不幸があったら、来年に先送りします。逆に、バイパスの開通や、田束山(たつがねさん)のダム橋の完成のような町の大きな事業があれば、その記念も兼ねて開催します。
お祭りは、三嶋神社が中心になって行われ、御神輿も神社にあります。
ただ、神社には神社の祭典がきちんとあって、それは太鼓を叩いて拝むんです。そして、祭りとなったら神輿を出して、村の若者が担ぎます。この神輿は、120年くらい前からの山伏の山岳信仰に由来するもので、田束山の神輿でもあるのです。山形の羽黒山とも関係があり、樋ノ口という地名も羽黒山と縁のある地名だそうです。田束山は奥州藤原氏が信仰したといわれる霊峰で、田束山を尾根続きに1キロほど南に行った満海山は、出羽三山の修行僧がミイラとなるために入定したといわれています。
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