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漁師の暮らしの流れが「ささよ」の中にあるね。中学校3年生の男の子が大将になって、もらったご祝儀をあとの子どもだちに分け与えるしきたりだね。親たちは絶対タッチしないって、昔からそういうしきたりで何百年もやってきた。1回公民館から来た人が、「お金を分配してるとこさ写真撮る」って入ったら追い出されたってこともあったんです。子どもたちが大きくなって船さ乗って、一人前の船員さんになった場合には、50人でも、30人でも一艘の船さ乗ってる水夫に分け与えるんだというような習慣が、そういうところから、培われてきている。
私がこの「ささよ」に参加した一番最初は、学校さ入ってすぐだね。そのころに大将から一銭銅貨を2個ぐらいもらったのを覚えてるね。それを分けるのが一番の大将ですよ、年配者だ。そして1年生はいくら、2年生はいくら、っていうふうに分配して。それで大きくなって、船頭が、使ってる水夫のこと船子と書いて「カゴ」って俗称で呼ぶんだけど、カゴたちに漁獲高を分配する意味合いが、あるんだね。だから一番の年配者が多く分け前を貰って、今年は仮にご祝儀を10万円もらった、子どもは何人いるから、年下の子どもたちにいくら分けて与えて、残りのいくらを私が取るんだ、って言っても後の子どもたちは文句も言えねえし、あとわかんねえべ。なんぼもらえたか、っていうのも。それは大将なればわかるだろうけれども。ご祝儀は何に使ったって、私たちは、ノート、鉛筆。その時代は貧しいからなかなか鉛筆なんかも、貴重なものだから、みんな、竹のわっかを着けて長くして、ほんとに短くなるまで使ったものだから。
そして今はね、お金を封筒に入れて出すからね。封筒に入れると、いくら包まっているのか分からないっていうのがあるから、「本当は裸で渡すんだよ」って、私はこういうことも部落の人たちに語って言い聞かすんです。
つまり、「自分の家の神棚に、『今年も大漁しますように』と願って、お神酒とお金を添えて拝んだのを置くんだよ。子どもたちが来ると思うから封筒に入れんだべっけど、それではダメなんだ」って言うんです。子どもに「お小遣いをあげている」んじゃなくって、「神様のお下がりを自分たちが貰ってる」ということを分からせるんです。私の家ではいまだかつて、封筒に入れて出したことない。神棚の前に、お神酒とお札そのままにして拝んでおいて、それを子どもたちに与えているんですよね。そういう昔からの習わしがあるんだから、例え1000円でもいいから自分の神棚に供えて、今年も安全で大漁しますように、って拝んだやつを上げるんだっていうことで、お札そのままで、現物で出すんだよ、って伝えてるんだけど。なかなか、ほとんどの人たちは封筒に入れて出すね。
それから、子どもたちに飲ませるつもりでお金にお神酒の入った杯を添えて出す人がいるから、それはないことにする。その年の大漁を祈願するんだから、なにも杯(さかずき)なくたっていいんだから。これがね、一回ね、県の指定を超えて、国の文化財になるかもしれない、っていうことで県の方から「ささよ」の視察に来たことあったのね。だから教育委員会から連絡あったから、今度の場合に杯を添えてはだめだよ、ってよく説明したんだけれども、その杯に酒をついでやったら一番の大将が飲んでしまったわけだ。それで、「子どもさ酒を飲ませるんでは、文化財の指定には向かない」ってお流れになった。国の文化財に指定されればそれなりの助成金をもらえる。書類を出さなければならないことはわかっているけども、いいな、と思って町の人と喜んで語っていた先ね、子どもたちに酒飲ませる行事では文化財指定には向かないからって一回で終わりです。
これも時代の移り変わりで、ご祝儀の出し方も変わってきて、いろいろ変わっているけれども、まず船に大漁旗揚げて来て、家々に大漁唄いこみを歌って、旗竿に酒を注いで大漁祈願する、これだけはずっと前から変わらない。
寄木の子どもは、小学校にあがったら「ささよ」に入れるってことは、みんな知ってるから。だいたいお正月の15日にやる行事ですから、そのお正月入ってから、3日、4日あたりから稽古やるのね。「ささよ」に初めて出る1年生なんて、勝手がわかんないから、一番上の年長が紙さ書いて教えてやるわけ。
「ささよ」の詳しい紹介や美しい写真が掲載された地元紙「南三陸」がダウンロードできます。
子どもたちに「ささよ」の歌を教える時には、もっと「民謡的に」教えたんだけれど。本当はこの区切りにもね、もっとお囃子が2回くらい入るんです。「おめでたい、あらよ」だったら、ここに「コーリヤ」とか「ヤーイヤイ」って入るんです。「おめでたい」「ヤーイヤイ」とはいる。その掛け声でほら、威勢がつくわけね。本当はそのように入れて歌わせると、とても40回やそこらで終わらないから9つで区切って、それらを抜いて作ったの。子どもは4時間かけて全戸回って、途中で1回休憩させても、大変なのね。
子どもたちがご祝儀もらいに、船を持ってる家のところにくると、船名を言う。「おらがヒデキ丸、あらよ よのある ふなだまだ」そのように歌うようになってるの。船のない家にも行くから、船のないときは「おらがヨリキハマ」とこのように歌うわけさ。船の神様のことを「ふなだま」と言うんだね。大将が家の入口で「今度の家は、こんな風に歌うんだぞ」って言うから、それにならって歌う。
実際には、子どもたちだけではダメだから、私もついて一緒に歩いてね、いろんな新聞記者だの放送局なんか来るから、いろんな説明しながら、ぐるっとついて歩いたもんです。
1. おめでたい あらよう 三めでたい かさなるとえー
2. お船玉 あらよう とらせるさかな さづけたまえやー
3. 雨がふる あらよう 船戸にかさを わすれてきたどえー
4. 呼べば来る あらよう 呼べねば来ない せきの水どえー
5. あれを見ろや あらよう しまかめ山の ゆりの花とえー
6. けせんざか あらよう 七坂八坂 九坂とえー
7. 十坂めには あらよう かんなをかけて 平らめるとえー
8. おらが寄木浜 あらよう 漁のある浜だ おめでたいやなー
9. みなといり あらよう
ろかいのちょうしいりちこむとえー
ささよー よいとこーら よいとなーえー
へんややー へんややー へんややー
見習い修行から志津川に戻って以後、いろいろな大工の人たちと関わるようになりました。何年もしないうち、25~30歳くらいの頃だったと思いますが、宮大工の方と関わるようになりました。
上山八幡宮(かみのやまはちまんぐう)や大雄寺(だいおうじ)など、あれだけの地震があったのにビクともしなかったのですが、そこの建築に関わった先生に、一応何年か社寺建築の現場にいさせてもらって、手伝ったことがあります。応援ですね。興味はもちろんありましたからね。
社寺建築でも、普通の部屋を造る大工は重宝がられるんです。宮大工は彫刻とか斗組(とぐみ)とかを作業して、それが終わると中の造作は我々一般建築の大工で十分対応できるんです。
その流れで、私は神棚を作るのが好きなんですよ。宮大工の手伝いに行って神棚を見て、「こういうの、いいな」と思って、そのミニチュア版を造ってみたわけなんです。小さい、細かい細工に自信がありました。どこ行っても「神棚はやらせてくれ」って言う位好きだったんです。手伝いに行っていたところの棟梁に「造らせてほしい」と頼んだら「いいよ、やっても」と言われて造ったのが最初です。現場で10日位、座布団の上に座って作るんです。
神棚は神様の本体を納めるためのお部屋を造るんです。この辺のは巾が6尺(1800㎜)とか9尺(2700㎜)大きいんです。細い垂木をいっぱいかけたり、神社のように斗を小さく拵えたり、大好きな作業でした。家は1軒1軒間取りも違いますから、そのたびに図面も自分で書いて造っていました。
お正月は神棚に、鯛などの形に切り抜いた「切り子」を飾りますね。そのほかにも、いろいろのお飾りを貼ります。鯛の形がついたとか。「星のだま」などのいろいろなお飾りを飾ります。それを作るのは、切子を専門にするような職人さんがいたんですね。しめ縄とかお飾りなどを売りに来ていました。
今でも、御幣束(おへいそく)を切る方が、この仮設住宅の中にいらっしゃいますよ。私も今年のお正月は小さいものを切ってもらいました。
ここらへんのお正月の風習は、伝統的なものがありましたね。
まず暮れになると、お家を綺麗にして、神棚を掃除して、糊を焚いて、真っ黒になった格子もきれいにします。夜になると親が障子紙を張るので、昼間のうちに子供たちで準備しておくのです。それから、「お恵比寿さん」など(七福神)人形を全部下ろしてきて、すすで黒くなったのを洗って綺麗にしてから年越しをします。親は、日中の仕事が終わってから準備を始めて、障子を張るのも夜中までかかったりしてましたね。障子を張り替えると、部屋の明るさがぜんぜん違って、こんなに汚れていたのかと驚きました。
うちの場合だと五升枡ってお米測る枡があったんですよね、それに少しばかりのお金を入れて、それを「今年はありがとうございました。来年もなんとか困らない暮らしができるように」って親が神棚にお供えするんです。
おせち料理ですか? お姑さんがやったの。この辺では実家の方ではどうやったんだかねえ。義姉(あね)があったから、専門に料理上手でねえ。よそで婚礼があると頼まれて歩ったの。義姉(あね)さんがね。そして料理がうまいから何でもつくってもらって、そして私は何も、姉様がなにもするし、20歳くらいでお嫁にね、なんにもわかんないで来たの。
だからあとだんだんだんだん、見よう見まねで、そうするのかな、こうするのかな、と覚えたのね。覚えたり覚えなかったり、ま、その辺、ごまかしたりやって(笑)暮らしたんでないの。エヘヘ。
おせちね、お重になんてしないの。ここでは。うん。ただ、お膳に、赤いお膳に、ひと品ずつおさかなとか煮つけとか、ゴボウ入れて、黒豆とか、そういうのを出すわけ。私はね、黒豆つくり教えられてね、毎年作るの。お砂糖だの、しょうゆだの、ちゃんと分量があるから、それと豆と、さびた古くぎを探してきて、きれいに洗って、白い布に入れて糸で結わえて一緒に煮るわけさ。そうすると豆がつやつやになるの。アンコは小豆を煮て、袋を通して、煮詰めんの。そうしてやったもの、昔は。
神棚に飾るお正月飾りは、お正月近くになれば、気仙沼でも唐桑でも、どこでも売ってるの。どこで買ってもいいの。宗教によって天理教の絵の家もあるし、うちは仏教だから仏教のもあるし、神様のものでも仏さんのものでもその家、その家によって違いますからね。
うちは、買いに行って来て息子がやんの。暮れの28~9日あたりからもう飾りますね。一夜飾りは縁起が悪いし、「餅も一夜で搗(つ)くもんでない」とか言いますね。
元朝(がんちょう)参りは御崎さんまで行ったったのね、昔はね。今は車もないし、誰も一緒に行く人いないもの。だから、うちの氏神さまで元朝参りするんです(丘さん宅には、敷地内に小さな氏神様が祀られている)。昔は御崎さんまで、みんなで連れだって元朝参りだの行ってね。子どもたちも祝いに来るからね。いろいろ縁起物を買ったりしたんだけどね。
私の住んでる地区は、昔は年に2回、春と秋、今は旧暦の10月19日に地域の祭典日があったんです。しかし、今回のこの震災で、地域の神社の宮司さんが不在になっています。歌津には宮司さんが2人いらっしゃったんです。田束山(たつがねさん)を信仰する宮司さんと、うちの方の八幡様の宮司さんが。私たちは八幡様の氏子なんだけど、そこの宮司さんがいなくなってしまったんですね。
お正月には、神棚に飾る幣束や「きりこ」を、宮司さんがみんな切って氏子に渡すわけです。だから、宮司さんが見つからなかったら今年のお正月はどうすんだろうなって思ったんです。
神職と教職を兼ねている人は多いですよ。お寺のお坊さんは、檀家が多ければそれ専属で生活できるわけです。宮司さんなんて氏子がいてもそれで生活できないでしょ。宮司さんの仕事なんて地鎮祭とお祭りとか、年に何回しかないんだから。これから宮司さんをどうするか、氏子は今悩んでるところなのです。今は他の地区の宮司さんにお願いする方法しかありません。宮司さんになるのは、お寺の和尚さんになるより難しいということでした。
「いや、誰でもできんだ、テープレコーダで音を流して、ダンダン、ダンダンって。烏帽子をかぶってやればいい」と冗談でそんな話もしていますが、本当に宮司を務める人がいなければ、ただあの、お正月のお飾りができないんです。都会と違ってわれわれは海と神様と深いかかわりを持って生活してきたんですから。
氏子も、昔は神社に何度も奉納する機会があったわけですが、今は単なる神社を回っての打ち鳴らし、要するに、神楽です。宮司さんの鳴らす太鼓は神楽の太鼓なんです。私自身、神社ではありませんが、青年団で神楽をやったので、ある程度の知識はあるんです。当時ある地区の郷土芸能を伝承しようということで、若い連中5〜6人を集めて、神楽を習いに行ったんです。そして、青年団で芸能部門で県の文化祭に参加して神楽を披露し、優秀な成績を収めたこともあります。
うちの部落で神社は3つあるんです。八幡神社(はちまんさん)ていうのは、各部落にあるもので、そのほかに白山神社、愛宕神社。祭りの時はお神楽で、その3箇所を回ることになっています。神社は、建てる位置も「田束山から見て南南西になんぼ」とか、角度が決まってるんですね。詳しいことは分かりませんが星回りなどが関係しているのかもしれません。
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