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小学校に入るころ、親父が栗原の隣の瀬峰(せみね)の小学校に転勤しまして、そのとき私もその小学校に入学しました。その後、小学校3年生の頃、親父は仙台に転勤し、私も仙台の長町小学校に転校しましたが、ちょうどそのころに父親が病気になって、夏休みには小泉に帰って来たんですね。
そのころ、前から夏休みになると、母親に連れられてこの小泉で遊んで行ったものです。そのころの小泉のイメージは、自分で画用紙にクレヨンで描いた海水浴場のものなんです。夏休みなるとしょっちゅう遊びに来た、思い出の多い赤崎海岸の絵です。
たぶん、小学校1年生頃に描いたと思うんですが。その海水浴場は水平線があって、下の方に松があって、すぐ近くに矢倉みたいな飛び込み台があって、そこに人が1人立ってて、1人が中間で逆さになって飛び込んでる姿、もうひとりは飛び込み台の真下に居て万歳している。子どもの絵ですから遠近法って言うのはないんですね、物理的に不可能な絵です。
津波の前ですが、その絵を子どもたちに見せたんですよ。「何でこんな絵描いてるの?」って言われました。この絵は、小泉の家の蔵の2階の方に包んでしまってあったんです。
思い出の海岸は、綺麗な海水浴場があったんだけども、今はもう、津波で松林もありませんし。白砂青松ってことばがあるんですけどね、その海岸もいまなくなってだいぶ海が深くなってきてますよね。小泉の人間として非常に情けない、そういう気持ちですね。
もう一つ、画用紙にお祭りの絵を描いたものがあったんです。地面を描いて、神社を描いて、そこに打ち上げ花火が描いてあるんですね。ああ、これは神社のところに花火があったんだ、小さい頃は八幡神社のお祭りのときには花火が上がったんだなあと思いだしましたね。子どもにも「お父さんが小さい頃にはこう言う風な花火があったんだよ」ということを教えてやったりしたんです。
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