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まず、製材所の社長か専務か、山を見て、山を刈る。
そして今度は自分の雇ってる4~5人の木挽きさ山に入れて木を切らせる。
切ったのを地駄引きで「なんぼ(の料金)で出してくれ」と頼む。
出したのを今度は自分の車で持ってって、製材する。
こういうふうですから、人手が何人もいったんだね。
今は、森林組合は森林組合でチェーンソーで木を切って現場さ運んで、1カ所に集まった材木を自分たちで入札して買うだけで機械化も進んだから、そういう地駄引きもいらなくなったし、木挽きさんも少なくなった。人足も淀むし、諸経費がかからなくなった時代だね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
子どもの頃の遊びといえば「木馬(キンマ)」でした。近所に子どもが沢山いたので、先輩の見よう見まねで自分で作って近所で遊んでいました。下駄にカスガイを打って「下駄スケート」もよくやったし、木にロープを結わえつけてブランコをしたりもしました。たくさんいた子どもも、尋常小学校の6年生になる頃には、尋常高等小学校に進学する人はいくらかはいましたが、家のために紡績工場に働きに行かされる子もいました。
父は明治19(1886)年に私同様、鱒淵に生まれましたが、16~7歳で三井物産に入社し、カナダに渡りました。
というのも、三井物産は宮城県の地場産業として栄えていた養蚕で、カナダと生糸の取引をしていたからです。カナダでの父は、ドイツ人の家庭に下宿し、夜学に通いながら昼間は働くという生活をして、英語、ドイツ語を身に着け、さらにフランス語など5カ国語を話せるようになったといいます。父はカナダと日本の二重国籍を持っていました。カナダで洗礼を受け、洗礼名カルロフというクリスチャンになっていたのですが、その父の形見はロザリオです。米川の教会の復興に尽力した小林司教から昭和30年頃に戴いたもので、それも今は私の手もとにあり大切にしています。
そして私は、宮城県の社会福祉課の委託を受けて、登米市と栗原郡の中国残留婦人の生活相談員になっています。残留婦人から話を聴いていると本当にかわいそうに思うのです。
ある方は、昭和17~18(1942~43)年頃、宮城県の「満州の花嫁募集」というのを見て、花嫁修業ができると聞いて20代で満州に渡ったそうなんです。今は日中・日韓関係が非常に悪いですが、当時としては大陸は日本の憧れ、成功の国だったわけです。その頃、満蒙開拓団といって、若い男性を満州北部の不毛の地に送り込んで開拓させたんです。そのお嫁さん候補として募集されたんです。それが何かもわからずに、自分の家が貧乏なので、満州で一旗揚げようと思って渡ったのです。その方以外にも20人くらい行ったそうなんです。
そして満州に着くと、花嫁修業もお見合いもあったものではなく、「あんたはここ、あんたはここ」と、顔も合わせない性格もわからない男の人のところに強制的に行かされたそうです。住まいは電気も何もなく、床は藁の掘っ立て小屋で、生きていくために毎日開墾、開墾って鍬で土地を掘り返すだけ。そのあたりのことはその方も詳しくは話さないですね。子どもが生まれて1年も経たないうちに旦那さんに召集令状が来ましたが、その方は2人目の子どもを身ごもっていました。母子で生活して行かなければならなくなりました。
終戦の声がする頃の開拓団の人ほどみじめなものはありませんでした。南下するソ連兵に追われて、みんなして南の方に逃げたのです。私が満州の綏化に暮らしていた時も、グランド一杯に開拓団の人が避難してきていて、「食べるものが欲しい」と言ってきたので分けたことがありました。その方も旦那さんのいないまま子どもの手を引いて、身重の体で、列車も無いから歩いて歩いて、どこをどう歩いたかもわからないうちに陣痛が来てしまった。子どもを産んで、そしてすぐにその子どもの首を絞めて殺して、穴を掘って埋めて、そしてまた、開拓団のみんなに送れないようにと歩き出す。だけどみんなどんどん先に行ってしまうのです。遂に力尽きて倒れてしまったんだそうです。
取り残されてしまい、手を引いていた子どもが声を上げて泣いていたら、そこに若い男性が通りかかって、2人を自分の家に連れて来て介抱してくれ、何日経ったかわからないけれど、目を開けるとお婆さんが煤が付いたように真っ黒い液体の入った茶碗を差し出して「飲め」と言っていました。すぐに「あらっ。私の子どもは?」と思ったのですが、子どもさんは若い男性と遊んでいたので安心すると同時に、「もう日本人は1人もいなくなってしまった」と悟ったんですね。その家は土間に藁を敷いたような貧しい農家でしたが、そのお婆さんと男性が優しかったので、結局その男性と一緒になって5人の子どもを産んだんだそうです。
昭和47(1972)年、田中角栄首相が日中国交正常化を実現してから、満州に住んでいる日本人が声を掛け合ったところ、「あら、あんたもいたのか、あんたもいたのか」というほど開拓団の花嫁の人たちがいたそうです。
現地の男性と結婚して家庭を持っていたので、その方は日本に帰るに帰られなくて、お婆さんと旦那さんが亡くなってから初めて日本の土を踏んだそうです。開拓団で結婚した男性は、結局復員して、別の女性と結婚していました。
この方ほど青春も何もない時代を過ごしてきた人がいるんだろうかと思うと、本当に気の毒だと思います。
私は、満州の引揚でほんとうに悲惨な体験をしましたが、現在は何の不自由もなく生活しています。このことで、せめて何かの恩返しと思って、日本語講座のボランティアや生活相談員を続けています。(談)
制服は、俺たちはどっちかっていうとホントの学生服でなくって、なんていうかな、近所の人のお下がり、着たったと思うよ。
俺たち「うるし柿道路」って言ってたんだけど、その道路が米川に通じてんのさ。片道12キロあった、その道を通って自転車で米川に通学したんだね。パンクしたら押して帰る。迎えに来るったって、今みたいな自動車もないしね。冬になっと、この道路が雪で大変だった。自転車もなにも通れなかったから、みな歩いていくんだ。ゴムの長靴買ってあるからね。家を出されたったね。
大きな雪の時は、休むんだけどね。ただ近所に同級生の女の子がいたのさ。その人がまた、まじめすぎて、どんな雪でも学校に行くんだね。「なんだ、キヨコちゃんが行くのに、お前がいかねえつうことあんのか」って親に言われて、まず、こっちは辛かったね(笑)。ほんとその人のことば恨んでね(笑)。
北上川が溢れて、この辺が水害になったことあったんだ。飯土井(いいどい)あたりの、今登米市の庁舎がある近辺の人たちは、水害で長靴もらったのね。長靴なんてのはなかなか買ってもらえない時代に、配給になったんだ。俺たちは山の中だから貰えないわけっさ。あのときはホントになんていうかなあ、欲しいと思ったね。
行き帰り友だちと話したのは、たぶん、先生の悪口とかなんかそんなでなかったかねえ。今日はあの先生だから授業に行かないべとか(笑)。
当時、俺たちは大きなアルミの弁当箱にいっぱいご飯詰めて、梅干1こぐらいで暮らした時代だからね。キケガワ君っていうのが野球部のマネージャーだったのさ。奴が、俺たちが一生懸命練習してる時に俺の弁当食べた後の空に、石を入れたのね。そして俺がそいつを知らねえから、ほれ、片道12キロもカタカタ、カタカタ自転車で帰って来て、家に帰ると石のおかげですっかり穴が開いて弁当箱が使い物にならなくなったのさ。冗談がすぎたようなイタズラだっんだけどね。そういうことあったね。今でも同級会なんか出るとその話になるんだ。
ヤマ学校で何か学ぶべかねえ? 体力がついたかも知んねえね(笑)。相撲取りだの山を上り下りしたんだから。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]昭和14(1939)年生まれ
総代の仕事っていうのは、華足寺には秋、春のお祭りがあるんだけど、どんな風にしたらいいか、経理や、ポスターを何枚作る、新聞広告に出す、あるいは文書で直接個人に配る、とか、それから今回みたいに震災で文化的なものが壊れた時に、どのような方法で修理するかとか、そういう華足寺に関するいろんな相談ごとだね。
ただ、同じ華足寺でもご住職が個人でやることがあんのさ。例えば、節分会とか、総代に関係なく、和尚さんの個人的な考えでもってやると。
表面は同じようだから、「なんでその時は来なかったんだ」とみんなによく言われるんだけど、それは総代に関係なく、ご住職が独自にやるって格好になってるわけだ。だから収支、なんぼ入って、なんぼ出てったとか総代にもわかんねえわけだ。
年2回やる華足寺のお祭り(大祭)のことに関しては総代がタッチできんだね。あとのことは例えば元旦とか、どんと祭とかってのは、ぜんぜんわかんねえっしゃ。
大祭にはご住職以外に近隣のお坊さんと互いに行き来するんだね。ここは真言宗だけど、登米市の神社仏閣が42、その中で曹洞宗が24だべか。真言なんかは少ないんだよね。
昔は馬をみんな飼ってたから、馬を祀っているこのお寺には方々からみんな来たんで、鱒淵地区は昔は春のお祭りで1年の生活を賄うことができるってね。
有料で参詣に来る人の自転車預かりをしたり、山にある笹に和尚さんの書いたお札をつけて手作りの飾りものに仕立てて売ったり、「追い馬」といって画用紙に馬を書いて、それを黒とか赤とかのいろんな色にして、くるくる巻いてひとつ300円位でいろんなところで売ってるわけだ。1軒ばり(だけ)でなく、何軒もやってたね。
それから、喧嘩もよくあったね。今の消防団ってのは非公務員だけれども、昔は公務員で、酒飲むと喧嘩だったのね。茶店(ちゃみせ)あるでしょ。いまみたいにご近所がやかましくないから、茶店を出して、茶碗さ豆腐を出してね、肉を挟んで、そしてそこに酒っこを出す。そこで飲んでだんだん喧嘩になって。
馬が少なくなって、先代住職の苦労ってこともあったんだね。ぜんぜん採算がとれなくてね。採石場で働いたりね、マイクロバスの朝晩の送り迎えにいったりね。そうしながらね。競馬がこれからの時代はあれだからって競馬場の厩舎周りをしたりね。そういう時代もあったのね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
日本鋼管から鱒淵に戻ってからは、林業には戻らず、畜産農家に変身したんだね。今度は乳牛なんだね。昭和41(1966)年あたりは乳牛プラス家畜商の免許を取ったね。
家畜商っていうのは、3日ぐらい講習受けて、供託金2万だか3万だか納めて、そしてあと免許証貰って、あとは、かたいこと書いてある冊子読めって貰う訳だ。(一定の講習を受講し、法務局に供託金を納めて営業開始許可が下りれば、すべての家畜の売買等の業務に携わる家畜商としての営業をすることができる)
これからはやっぱりこういう畜産関係でなければわかんねえかな、っつうことを自分では思ったので、こういうふうな道に踏み込んだのさ。
市場出した牛もあったのさ。ウチの屋号は「峠(とうげ)」っていうんだけども、当時ほれ、この辺は「三井、三菱、峠畜産」って儲かった儲かんねえ別として、他に事業がなかったのさ(笑)。
そのときまだ親父が生きてやったからね。親父っていうのは真面目に、カラカラと馬車を引いて歩いた人だから、そういう馬喰好きとか山師好きとかいうのがなかったんだね。
だけど、俺(おら)のずんちゃん(祖父)って人は炭窯の指導して歩いた人で、子どもの頃は鉄砲打ったりして、どっちかっていうと俺の性格に近かったんでねえべか。そのずんちゃんが縁故の関係の人からの借金で、家だの土地が抵当に入れられてたの。親父はコツコツと働いて借金かえして、抵当を解除してもらったような人だからね。その親父が言ったのは、自分に回って来た借金のこともあったんだけっども、「何をやってもいいけど、人様からだけはうしろ指さされるなよ」っていうのが、一言、まだ心に残ってるんだけどね。
それでその道に入って、あとは近辺歩いたのさ。今の三陸とか、本吉とかね。家畜車。したら、ところどころでお世話する人がいるから、そこに行ってお茶飲みをなんかしたりしてね。そしてまあ、暮らしたんだね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
戻って来てからは、いろんな人と遊んだけど、野球でひとつのまとまりがあったね。鱒渕野球クラブを作って。登米市では他に、仙北鉄道とか4チームしかなかったのさ。その4つで軟式野球の登米郡の予選なんかやってね。
地元にある建設会社があったのね、そこでバッテリー組んでた奴がそこで働いてて、俺は勤めてないんだけども、「現場課長」だかなんだかいう名前を貰って(笑)野球部に入りました。その時、国体のB級、仙台での県大会まで行きましたよ。だから仙台の宮城球場の土は踏んだのさ。いまは「クリスタみやぎ」とかいってるけど。
そこで一回飛島(とびしま)建設に勝って、2回戦だったか、準々決勝だったか、大林組とだったかな、当たってね。当時やっぱり建設業界はね、野球強かったから。一回延長戦になって、15回までいったことあるからね。最後は敗れてしまったけどね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
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