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私の生れる前の話になりますが、私の母はふみ子、父は久志といい、父は米川狼河原(おいのがわら)綱木(つなぎ)の沢の小野寺家の農家の3男として生まれました。屋号は「曲家(まがりや)」といいます。一番上の兄が秀吉といい、体格があまり大きくなくて、仕事はあまり出きない人でした。かわって2番目の兄の金治と、体格の良かった父とで、馬で田を耕して稲を育てるなど仕事をして、小野寺家の財産を作ったそうです。
私は米川小学校の2学期から6年生に編入し、新制中学校に進学しました。日本に帰ってきてからは家に収入もなく貧乏でしたので、夏は藁草履、冬は藁で編んだつまごを穿いて学校に通いました。仙台への修学旅行も250円~300円の負担金が出せなくて、自分ひとり行けませんでした。小学校の頃から、下校すると近所の親類の農家に行き、鍬を使い、土寄せ、種撒きや麦刈りなどの手伝いをしました。そうすると夕飯を食べさせてくれるから、1食分でも家で負担しなくてもよいから、毎日そうやって働いていました。当時、ほかの家は畑があるから主食になる芋を作っていましたが、うちは土地を所有していなかったので、ほかの家で稲を刈ったあと、すぐの妹の恵子と2人で、稲穂拾ってきて、一升瓶に入れて搗(つ)いて、米にしたものです。その後、母が実家の土地を借りて一畝くらいの畑を作ったりしていました。
本当は、私の子どもの頃からの夢は、師範学校に入り学校の先生になることだったのですが、家族のため、働こうと決めていました。自分は家庭のために犠牲になっても妹弟たちは良い生活をさせたいという思いがありました。帰国当初、家は米川村役場から生活保護を受けていましたが、私の中学卒業と同時にそれをお断りしました。
ただ、恵子にも卒業時の修学旅行、仙台行きも、「俺も我慢して行かなかったからお前も行くな」と言って行かせなかったことを今も申し訳なく思っています。「俺も働くからお前も行け」って佐沼のある金物店に女中に出したりしたのは、苦労させて、すまないことをしました。今でも心残りです。その下の妹は比較的自由に過ごして、高校まで出ています。
平成6~7(1994~5)年頃、生活が安定してきた頃から、登米市の日本語講座に関わるようになりました。東和町には、残留孤児のお世話をする人の紹介などで、中国からきたお嫁さんがいました。日本語がわからないのでは大変だと思い、何か自分も世の中にお返しできたらという気持ちで始めました。最初は受講するお嫁さんも3~4人でした。
私は農業委員をしていた頃に、委員10人ほどと8日間かけて中国に視察に行ったことがありました。そのときは大連、上海、昆明、桂林、北京と回ったのですが、昆明で少数民族のサニー族の学校を訪問したり、上海の大農場での水耕栽培を見たりました。その頃、日本のタキイ種苗など大企業が中国に行って農業の指導をして、日本の技術をどんどん移転していました。
その旅行の企画をしていた会社の社長と友だちになっていたのですが、日本語学校のことを知ると、「日本語教室をするなら、うちの社員を講師として派遣しますよ」と言ってくれたのです。そして盛岡から講師の女性に来ていただいて毎週日曜日、1年間日本語教室を続けました。私は毎週日曜日、東和町の公民館のカギを開けに行き、それから日本語教室をしたのです。最初は3~4人だった受講生も、5人になり、10人になり、15人になる頃には、中田町、迫町など少し離れた地区の方も来られていました。東和町では生涯教育課が担当になり、日本語講座は現在も続いています。
この辺りでは、昭和30年には開田政策により、もともと煙草地帯だったのを水田に切り替えるため、PCB系の猛毒の除草剤をばらまき、水が汚染されてホタルの数が激減しました。やがて作った米が余る時代になり、昭和45年には減反政策が打ち出されました。稲作をやめればお金が出ることから、みんなが稲作をやめ、田んぼは使われないまま休耕田となりました。除草剤が使われなくなり、それによって数万のホタルが爆発的に発生したのです。そこで、話し合いの中で、「昔からここにはホタルがいる。都市化が進んでいく中で、希少なホタルがいる環境は重要だ!ホタルを保全しよう!」と考えたのです。
そのためにまず、私たちはホタルついて勉強することから始めました。ホタルの種類、生態、ここでのホタルの位置づけ、価値とはなんなのかなどです。ゲンジボタルはもともと関西にいて、(当時は)ここが北限だったのです。春に草刈りをしたり、川の清掃をしたり、ホタルの幼虫のエサになるニナガイ(巻貝)の保護をしました。
ホタルが見られるのが6月末から7月初めがピークです。東北大の生物学者で国の文化財保護委員の加藤陸奥雄(元東北大学学長、平成9年没)さんを鱒渕にホタルのシーズンに実際にお呼びしたところ、「ここはすごいよ!こんなに環境があって、餌のニナガイがたくさんいて、きれいな清流があって、しかも荒らされていないというのは、宝物を守るというのとおなじだよ」と言われましたので、それで我々も自分たちの活動に自信を持つことができました。加藤さんはその後、東京の会議で、鱒渕のゲンジボタルは国の天然記念物に指定すべきだと発表されたのです。地元が天然記念物に指定していないものをいきなり国が指定するという提案が上がって、町と県が相次いで天然記念物に指定し、昭和54年、最終的に国の指定を受けるに至りました。そこで、「ふるさと会」だけでは保存活動はできないので、昭和51年、地域のみんなで守ろうという「鱒淵源氏ホタル保存会」が結成されました。
日露戦争が終わった明治38年、田舎は過疎化して農村は疲弊しており、この地域一帯は貧しかったのです。というのも、戦争中に国益を上げることを重視し、都市化が進行して子供も戦争にとられたからでした。
ここでリーダーとして立ち上がったのが及川甚三郎なのです。及川姓を名乗っていますが、実は小野寺家から養子にいった人(小野寺重郎治の三男として米川字軽米に生誕)でした。小野寺家は当時、北上川を船で渡って、石巻、仙台、東京へと生糸や薪を売りさばいていた豪商でした。つまり、及川甚三郎もその商人の血を色濃く受け継いでいたのです。
甚三郎は、カナダのバンクーバーを流れるフレーザー川へ、大量のサケが遡ぼる、しかし白人は卵を食べないからそれが捨てられる、ということを噂で聞きつけました。彼はこれを塩漬けに加工して商売できないかと思い、実際に明治31年にカナダに噂を確かめに行きました。それは本当のことだったのです。
甚三郎は、サケの卵の塩漬けの加工をカナダで行い、成功しました。成功した要因のひとつは、東北地方からカナダへの、大規模な日本人移民が来てくれたことでした。当時は、移民法により大人数で移民することが許されませんでした。そこで、彼は石巻から密航させて人々をカナダに移動させたということです。このことは、新田次郎の著書「密航船水安丸」にも書いてありますが、私もその取材の協力をしました。
太平洋戦争が起こると、カナダにいた当時の移民の人たちは強制送還されるか、あるいはカナダの山奥の仮設住宅みたいなところに強制収容されるかのどちらかになりました。今いる移民の人たちは強制収容された(辛い時代を耐えて)残った人たちで、今はその子孫がカナダで生活しているのです。
米作りでは自分のところだけでなく、他人から田を借りて5~6ヘクタールもの請負耕作をしました。その当時トラクターはなく、テーラーという耕運機で畑を耕したものです。牛も5頭飼って乳搾りをしたり、「上台ファーム」の自動車を買って、木を伐って炭を作り、それを車に乗せて仙台へ売りに行ったり、タバコの栽培もしましたし、養蚕もしました。ドジョウの養殖がいいと言ってやっていた時期もあります。いろいろ挑戦して、ほとんど失敗ですよ(笑)。
私の生家は350年前から14代続く農家です。名字が無いのが当たり前の、名前だけの時代からありました。鱒淵という地域は、今は300軒くらい家がありますが、古文書の上では18屋敷から始まったとされ、我が家はその18軒のうちのひとつなのです。家が続く、ということは実は大変なことです。
この辺の葬式は、まずね、誰かが亡くなると、班長さんが「集まってください」って声をかけて、みんなで集まって葬儀の日取りを決めるわけです。だいたい葬式って友引にはやらない。それから4日目も死につながるって嫌うんです。そうするとだいたい5日目くらいになってしまいますね。
そのあとはやっぱりみんな手伝いに来てくれて、喪主と遺族はもちろん祭壇の前にいないとダメで、弔問客の対応だし、男の人たちはいわゆる葬式に使ういろんな飾りものとか何かを作ってもらったり、あとはテントを張って受付をして。女の人は食材を用意してゴハンを作って、弔問客にお茶出して。毎日大変です。
今は亡くなってから3日くらいで葬儀まで終わらせることも多くなってきたけど、昔は5日くらいかかっていましたね。喪主なんか寝る暇ありません。親父のときは、私が喪主で、ちょうど日曜日だった4日目にやってしまったんですが、それでも大変でした。
私たちの当時の結婚式は、公民館結婚式というのが流行しました。
公民館で人前結婚式をして、そのまま披露宴をするんです、結構広いので。披露宴の料理は仕出し屋さんが来て用意するのがセットになっていたと思います。高島田でお色直しは1回ぐらいしたかな。
後は各家にほんとに近い人とか、親しい人がそこ終わってから家に読んでドンチャン騒ぎ(笑)。今と同じですよ。
鱒渕にはの青年団っていうのがあって、当時はそういう団体が各町内会にいっぱいあったんです。学校を卒業して社会人になると、青年団に入るのが普通だったから。もちろん入ってない人もいたけれど。8割がた入っていましたね。女の人もそうです。
青年団が何をするかというと、年に1回、演劇やコーラスの文化発表会のようなことをしたり、他の地域と対抗で体育大会、あるいは地元の敬老会を主催したり、盆踊りを企画して行ったりするんです。いろんな活動をやっていたんで、ほとんど夜は家にいたことがなかったですね。家にまともにいるのって月に1回くらいしかなかったんです。家帰って、毎晩青年団の活動に「いってきます」って出て行って、集まっていろいろ話をしたり、企画をしたり、ああでもない、こうでもないって話し合ってました。青年団は早い話サークルですね。給料なんてありません。
敬老会とかそういうのがあれば出し物の「またたび舞踊」、「演歌舞踊」を練習したり・・・またたび舞踊というのは、早い話が水戸黄門みたいな格好をするんですよ。氷川きよしの箱根八里の半次郎みたいなもの。年齢が30ぐらいになると、だいたい引退の時期でした。今は青年団はいまは盛んではないですね。
青年団でも会長をやらされて、東和町の中にも6つか7つくらい各地区にあって、それを統合する連絡協議会の組織もあったんですが、そこの会長もやったんですよ。どうしても黙ってられなくて発言してしまうのでやらされるんですね。
この地方はね、お昼御飯はこれ、とか決まったものはないけれど、割りと米がおいしいから、おかずはあんまり付けないで、漬物だけとか、昼はだいたいそういう感じだね。
あと、「はっと」ってね。東京で言う、スイトンみたいなもので、練った粉をうすく広げたようなのがあります。具は、汁ものならなんでもいいんです。味噌汁・・・醤油でもいいし、あずきなんかお汁粉みたいにしてもいい。
一説では、昔は、米は全部年貢でとられてしまって、残った小麦を使って、はっとを練って作ったところ、それが美味しいもんだから、米を百姓がつくらなくなるからまずいって、御法度になった、だから「はっと」。そういう説もありますね。最近なんかではカレーを薄く、緩くして、それに入れて、麺でないカレーうどんみたいな、団子汁みたいな風にするところもあります。
主食のごはんがあってはっとがある。でもご飯より好きな人はそればっかり食べるようです。年中通して朝昼晩問わずここら辺で食べられていますね。いっぱい人が集まってなんかやる場合にもはっとがあれば、ハラの足しにもなるし。1年中。私はあんまりはっと自体は好んでまで食べないんですが。
子供の頃はやっぱりおはぎとかああいうのが好きでしたねぇ。子供の頃からよく食べてました。
ごちそうたって今のような食材なんかもないし、今はカレールーを売ってるけど、昔はカレーなんかもカレー粉を小麦粉で溶いた真っ黄色なカレーで、肉なんかも買えなかったし売ってなかったから、肉の代わりにソーセージを入れたり、ちくわを入れたようなカレーでした。カレーは子供のころからありましたよ。
おやつなんてのはないから、木の実を捕って食べたりしてました。木に登ったり拾ったりして。秋になるといろいろ木の実が出るんです。アケビやグミ、あと柿とか。おやつ調達が遊びだったんです。