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契約会は、江戸時代から続くこの地方の相互扶助のような組織です。伊里前契約会は、元禄6(1693)年に歌津の伊里前で先祖が町割をしたときに組織されたといわれます。伊里前は、私の先祖が兄弟3人で作ったんです。牧野家は、志津川の朝日館(あさひたて)と中舘(なかだて)の中間に、牧之内城という城を構えた戦国時代の陸奥領主の武士、葛西家の一族の末裔なんです。兄弟は3人で町を区分し、切り出した山の斜面の山側を上町切(かみちょうぎり)、海側を下町切(しもちょうぎり)としました。ちなみに、牧野家の山から降りてくると役場がありますね。その役場の脇にあった蔵も牧野家のもので、資料置き場としてずっと役場に貸していました。こうした記録は「検立書」に保存されています。
契約会ができた当時は33世帯の組織だったそうです。一時は80世帯までになりましたが、跡継ぎがなかったり移転したりで世帯が抜けて、現在、77世帯になっています。農業より漁業が多く、約7割は漁業ですね。
そのうち74戸が津波で流され、今、残っているのは全部高台の家です。ちなみに、牧野家の本家はうちなんですが、たとえば、私が嫁をもらったら代理で下町切が本家になります。下町切に何かがあれば、今度はうちが本家です。そうして上町切と下町切の家が入れ替わりながら、その役割を果たしてきました。
契約会会員の権利は、家の長男が嫁をもらうと親から引き継ぎます。息子に引き継いだら親は引退で契約会には参加できません。いくら祭りが好きでも、だめ。年寄りは去るんです。こうして代々、新陳代謝を繰り返し、受け継がれてきました。息子がいなかった場合、嫁をもらわなかった場合は、引退せずに、いつまでも会員として参加することができます。しかし、最近は長女の婿も会に入れるようになりました。私の場合は、父親が早くに亡くなったので、一緒に住んでいた叔父が会員になり、私が働くようになってから、別家に出しました。
契約会では10人1組で「期(ごう)」を作り、一期組、二期組…と呼ぶのが習わしです。みんなで旅行に行ったりすると、「おう、組長!」なんて呼び合うものだから、仲居さんが驚いていました(笑)。私も2年くらい、組長を務めました。その時に、魚竜太鼓を作ったり、旅館に泊まったり。県の商工部と交渉してなるべく予算をかけないように工夫もして、宮古や東京ドームへも行きました。
私の祖父(じい)さんは、自分がこうと決めたら決して妥協しない人で、歌津の町長を2期務めました。その昔、牧野家は牧之内城の城主だったんです。私で22代目。普通は、家系は3代で滅びるといいますから、まあ、よっぽどうまくやって来たのでしょう。私はそんな意識はありませんが、祖父さんの時代は少しはあったかもしれない。刀もあるんですよ。それは、流されないように持ってきました。当時から代々引き継がれてきた大事な刀なんです。
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