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酒の肴は、毎日のことだから、それこそ刺身を作ったり、父親はイワシの頭を取って酢に漬けたりして、「うまい」と言って食べてた。それからドンコを生で叩いて、ワタを入れて、タマネギを入れて味噌であえるのが本当に美味しいの。
ご飯なんか食べずにそればっかり食べたくらいだったよ。私たちは「生ものは嫌いだからいらない!」って言ってたけど、父親が「頭を叩かれてもうまいから、食べてみな」って言うから食べてみたら、それが本当に美味しかった。それ以来、「ドンコのたたきってこんなに美味しいなのか」って、食べるようになりました。活きの良いドンコを食べたら、あなたたちだって喜ぶと思うよ。だって、獲れたてを、すぐたたいて食べるんだもの。
ドンコといえば、志津川の奥の貞任(さだとう)山のほうに米広(こめひろ)っていう集落があるんだけど、この地にいた安倍貞任(あべさだとう)という武将が敵に攻められたとき、山の上から米を滝のように流して敵を欺いた、というウソか本当かわからない言い伝えがあるところなの。
今いる仮設住宅のすぐ裏に住んでいる人が、米広から漁師のところにお嫁に来たっていう人でね、うちの父親に魚を食べさせてもらってとても美味しかったと言ってた。
清水浜(しずはま:南三陸町)の方では、炉で大きな鍋を火にかけて、おつゆでも何でも、ドンコだの魚だの入れて炊いて、みんなでお迎えするのさ。山の方から来た人だからめずらしかったんでしょ、それがすごく美味しかったって。よくよく話を聞いてみたら、一度うちに来たことのある米広の人の娘さんだったんで、びっくりしたよ。
昭和8(1933)年と、昭和35(1960)年のチリ津波と、今度の津波は3回目。昭和8年の津波でも、私は家も小屋もみんな流されたんだ。やっぱり今度のように雪が降ってね。
津波の前には志津川(南三陸町)に住んでいました。今回の津波のとき、息子は船に乗っていたんだって。地震が起きてすぐは息子も一緒で、今家が1軒残ってる、山の方の隅っこのほうに車を2台とも運んで避難しました。もう時間が無くて、たくさん蓄えておいた食糧も少ししか持っていけないまま、車に積み込んだの。まさかそこまで津波が来るなんて思いも寄らなかったよ。車を置いてから、息子は船を見にいくって行ってしまいました。長女も一緒に逃げて来てたけど、私には分からなかったけど、そのとき伊里前(いさとまえ)(南三陸町歌津)のほうから波がこっちに来てたの。そこから車で波に追いかけられるようにして逃げたよ。
途中で娘に「そこの農協のところでいいんじゃないか」って言ったんだけど、娘は「ダメだ、ダメだ」って言って、もっと高いところに逃げたの。船を持っている人の土地があってそこが平らになってたから、そこに車を入れさせてもらって。後ろを振り返ったら、田の浦(南三陸町歌津)の方から来る波と、伊里前の魚竜館のほうから来る波がぶつかって、まるでもう噴水! たった今通ってきた農協のところも、清水浜は一気に、すべてが流されてしまった。もう、すごい、すごい! 一緒に見ていた人のなかに「私(おらい)の家が流される!」って言っている人もいました。
一度波が引いたときに、うちの孫が波の様子を見てたら、誰かが走ってきて、周りをぜんぜん見ないで自分の車の方に行くので、「そっちに行ってはダメだから、いいから、行きましょう」って言って引っ張ったんです。危なかったんですよ。車はようやくそのへんに引っかかっていて、そこから通帳がぶら下がっていたのを取ろうとして落ちかかっていたんだね。孫が「助けて、助けて」と叫んだので、それを聞いた娘がそこに行ってその人を引っ張り上げたんだ。
自分の住んでいたところでは130戸も家が流されて45人もの人が亡くなったの。だから、流されてしまった部落のところを通ると情けなくて涙が流れに流れてしまうよ。この仮設住宅の上のほうに1カ月いて、鳴子温泉に行っていくらか体を休めてに1カ月行って来たの。そのときも息子は働かなくちゃならなくて。「漁協の方で今働かねぇと、クビになってどこさも行くところが無くなる」って言って、鳴子から志津川の瓦礫の中へ通っていたよ。2日ぐらい、志津川のどこかの家に泊まって、また鳴子に行って、行ったり来たり大変だったねえ。
小泉から見える海抜512メートルの田束山(たつがねさん)という山は、藤原氏の住んだ平泉の衣川、源義経の家来の弁慶が立ち往生した、あの衣川ですけど、その向かいにある山と非常に似ている山だそうですね。それで、藤原氏が伽藍(注:僧侶が集まり修行する清浄な場所。転じて寺院または寺院の主要建物群)を作っていろんなものをお祀りして拝む場所にしたんですね。その当時は40伽藍など、いろいろな建物があって盛んになったそうです。
田束山には3つの大きなお寺があるんですよ。(羽黒山)清水寺、(田束山)寂光寺(じゃっこうじ)、(幌羽山)金峰寺(きんぽうじ)とね。藤原家が滅亡した時に、ここも廃れて、その3つの大きなお寺が持っていた観音像を敵に取られないように、家宝と一緒に持って出て、ひとつは入谷、南三陸町の方に、もう一つは清水浜(しずはま)のほうへ、下って行ったんですね。
そのうちの一体と言われるものが山内家にあったんです。津波で流されましたが。私が小さい頃、よく兄貴なんかとイタズラしたんですが、重いんですよね。こんな小さくてしたの方が空洞なんですけどね、すごく重いんですよね。「これ金でねえか、切ってみるか?」なんてね。
病気で死んだ2番目の兄貴が、裏にして台のほうからちょっと削って見てたのを覚えています。それが何十年経っても錆びないで、ピカピカ光ってるんですよ。いろんな古文書を見てみたら、その頃、金鉱があって、金が沢山出たんですね。当時の金は精錬の技術が低く、粗金(あらがね)と言って、不純物がはいっていて、それであの像を作ったらしい。よく見ても表面はピカピカになってないんです。
田束山は何回も火災にあったことがあり、そのときの煤(すす)で黒くなっているそうです。そこを兄貴たちが切ったらそこだけまだピカピカしていました。大事にして神棚に置いていたんですけど、そういうものまで津波で流されました。
田束山には時の権力者が平泉と同じように金を運び込んだらしいんです。そして、金粉で書いた経文を、鉄で作った筒の中に納めて、敵が来ても持って行かれないように、土の中に埋めてしまったという言い伝えがありました。それが経塚です。
昭和何年か、気仙沼市の教育委員会が、東北歴史資料館の方をお呼びして、本当に経文があるか、ほっくりかえしてみようということになったんです。経塚を一つ掘ってみたんですよ。そしたら鉄の筒は錆で、ふたを外したら中に水が入っていました。経文を出してみたら、金で書かれた経文の文字がいくらか読めるものが出てきました。これは貴重なものだというので、東北歴史資料館に陳列されるようになりました。
山内家由来のお墓は大きく2つあるんですよ。ひとつは、古いほうで、藤原家のお墓。これは小泉中学校に行く途中にあるんです。山内家の先祖は、藤原姓を名乗って、田束山のお寺の学問の親分格、「学頭」をやっていたといいます。もうひとつはもっと高い山のところ、そっちは山内家なんです。
おそらく藤原から山内に姓を変えたのは、石に彫ってあるのをみると「山内盛」ってあるんです。彫が浅いので、よく見えないんですが。それが、観音像を抱いて山の下に降りてきて、寺子屋のように地域の方々に学問を教えてたんだということです。どんな人なのかもわかりませんが。
私の祖先の墓はあるんですが、位牌などは津波で全部流されました。あまり大きなものだと、何代も昔のものは置いておけない。ですから、薄い板をですね、一定の大きさに切って、法名と言うか、何年何月だれそれだれ、どこで亡くなったということを書いたんですね。妻が津波のあとに探して何枚か見つけてきたんですが、何枚もありません。
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