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慶長三陸地震津波の当時の被害について、私の祖父から伝承している地名とその謂れは次の通りです。なお、地名は、祖父が戸倉村役場に在職中に、青森営林署、地方の方々と立ち合いの上確認したものです。
大津波は水戸辺川を上って、流域各地に大きな被害をもたらした。その結果、もともと無名であったと思われる沢にその被害にちなんだ名前が付いています。
笹が群生しており波で多数の笹が押し寄せられていた出笹沢(でさささわ)、山の窪に穂がついたままの藁が積み上がっていた藁穂沢(わらぼざわ)、そして女の人が沢の奥地で亡くなっていたという女(おんな)の沢、そして鳥越沢(とりごえさわ)。
鳥越沢には伝説があります。高台移転の場所になる西戸(さいど)に繋がる沢ですが、村人たちが避難しながら、1羽の鳥が波の中から飛び立った。自分たちが命からがら逃げたのに、その鳥の助かった事を手を叩いてみんなで喜びつけた名前ということなんです。そして牛殺し沢。祖父にその名を聞いた時、「なんで爺(ズン)ちゃん、牛がそのころいたの」と尋ねると、当時の牛はその乳がタンパク源として欠かすことができず、農作業もさせたのだということでした。何十頭という牛が、戸倉地区にいたがこの牛殺し沢というところに、重なり合って死んでいたそうなんです。
その奥に吉三郎さんという名前の方が亡くなっていた、津波前は牡蠣の殻の処理場になっていた付近の吉三郎沢(きちさぶろうざわ)、それから上流に150メートル先の水戸辺川が2011年の東日本大震災の津波の最終到達点になります。そして遠の木沢(とおのきざわ)があり、津波はここにも達しました。遠の木沢の名前の由来は、木炭を入れた萱を背負った人がここから奥地を見たら色とりどりの雑木林があって心が癒される、ということからだそうです。最も津波の被害があった大害沢(たがいざわ)、舟が寄っていたという舟沢、家が寄っていた小屋の沢を経て、いよいよタタカイ沢が慶長三陸地震津波の最終到達点ということです。以上が私の継承した津波伝承になります。
まず、私が新井田館跡発掘作業でお会いした田中則和先生に御礼の言葉を申し上げたいと思います。
先生には、私の慶長三陸津波の話を聞いて「力になりたい」と言ってくださり、私と共に自宅のありました戸倉在郷地区の海岸より歩いて2時間45分かけて、水戸辺川上流の津波最終到達点まで歩いていただきました。
南三陸町入谷ご出身の大正大学の山内明美先生にも、発掘の作業現場まで私に会いに来られた上に、私の話を聞いていただきました。感謝申し上げます。
山内先生をタタカイ沢にご案内したとき、何の説明もしていないのに、「西條さん、この奥にかつてなにかありませんでしたか? 人が住んでいませんでしたか?」と訊かれた時は、確かに戦後の食糧不足の時代に入植者が一時居て全員が去った歴史があり、言い当てられてびっくりしてしまいました。今まで誰もそんな質問をする方はなかったので、さすがの洞察力だと感じ入りました。
2013年11月6日、東北大学災害科学研究所助教の佐藤翔輔先生、蝦名裕一先生、その他2名の先生方にも、私と一緒にタタカイ沢まで行っていただきました。
その際に、佐藤先生のお持ちになった機械により、現在の水戸辺仮設住宅より約60メートルの場所にある「長の森寺(慶長大津波時に寺から逃げず赤い法衣を纏って一心に経文を唱え、膝まで波が来ながらも助かった住職の言い伝えがある)」とタタカイ沢が同じ高さであるとの答えが出て驚き、やはりここまで津波が来る可能性はあるということを改めて知ることができました。
皆様には遠方より来ていただき、これほどまでに82歳の私に尽くされた御厚意に感謝を申し上げ、お礼の言葉と致します。
地域のキーワード:タタカイ沢, 新井田館跡発掘作業, 東北大学災害科学研究所, 水戸辺川上流津波最終到達点, 田中則和, 長の森寺
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