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ここ寄木には、250年ぐらいになる、「ささよ」っていう行事がある。テレビで何回も放送して、各新聞社もいっぱい来てっから。1月の小正月にやる、その保存会の会長を50年続けてきました。あとの会長さ譲って2~3年にもなるけど、昔やってた頃は、えらい盛んな形でね。いま人数が5~6人しかいなくなっちゃったですけど。
「ささよ」を残すのに、ほら、言葉ばり(だけでは)伝わんないからと、どのように書いたらいいか、苦心したのにね。これ作ったところ、津波でさらわれてしまって。ほんでも知り合いのところに写しがあったから、それを今度コピーしてもらったのが残ったんです。
残すって、歌津町史も、復刻してもらいたい。今回作んねえと、これから先、歌津町史っつうものが、いま、流されねえでもってる人たちしかねえわけさ。これから先、たとえばまた町村合併があれば、歌津そのものの町史っつうものがおそらく作られねえべかな(作られないだろうな)。だから、今回がいいチャンスでねえかな。コピーとるったって何千もページがあるもの。
生まれは昭和13(1938)年8月31日です。ちょうど73歳です。宮城県本吉郡歌津字伊里前です。ずっと地元で生活してきました。
兄弟は、弟と2人です。兄がいたんですが、5歳で亡くなっていますから、両親と弟と4人家族です。父は役場職員でした。
半農で農業を少しと、役場の職員という感じです。「歌津町史」にも載っています。町役場では助役を務めていました。農業は主に田んぼをしていました。
私が小さい時、父は軍国主義者っていうか、当時の大人はそういう風だから、小学校へ入る前に仙台へ閲兵式を見に連れて行ってもらったことがあって、その時、偉い人たちは馬に乗って衛兵は銃を肩に行進していて、それを見て親父に「お前は歩くより馬に乗る方にならないと駄目だ」と言われました。
親父が偉いとかそういうことではなくて、そういう時代。で、そんな親父だから戦争に負けた時、1週間飲まず食わずになって「このままだと親父が死んじゃうぞ」と子ども心に思いましたね。当時はラジオがまだ珍しくて殆ど無かった時代だから、ウチの前に近所の人たちが集まって玉音放送を聞きました。玉音放送は、明らかに国民に対する謝罪の言葉だと思いました。「申し訳ない」というね。私はわかりましたよ。
親父が飲まず食わずになったのも、「申し訳ない」という気持ちだったんだと思います。本当に飲みも食いもしなくて、頑固でしたね。赤紙が来て応召して、戦地へ送り出して、中には戦死した方もいたわけだから、「申し訳ない」と感じたんではないでしょうか。
津波の前に、たまたま親父の写真を整理した時に、「村葬」って言って、歌津村葬っていうのをやったんだけど、山内さんという方の旗(のぼり)の写真が見つかって、その家の方に「あるか?」って聞いたら「無い」というので大きく引き伸ばしてお渡して、喜んでもらったことを思い出しました。
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