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戦争は日本が負けて終わったでしょ。「これは大変なことになってしまった」と思ったっけ。
みんなで泣いたりもしてたけど、それでも戦争が終わってみんなが故郷に帰って来ることが幸せだったねぇ。そして、歌津の方でも志津川の方でも演芸会が始まったの。私もあちこちの演芸会に行っては、少しでも演芸のまねごとをするのが楽しくて。
「日本よい国、東の空に」と歌いながら、道中囃子(どうちゅうばやし)といって、私が考えた踊りを志津川の青年たちに教えたこともあったよ。学校からずうっと松林が続いてて、その松林は今は津波で流されて一つもなくなってしまったけど、そこを練り歩くときのお囃子だよ。そして、佐沼の青年団の人たちが来ました。会長さんは都会に行って帰って来た人で素敵な方だった。
「何でもやる気になれば」「あらゆることをやらなければ」と思って一生懸命やったんだ。目が赤くなってもやるの。人様にお見せする限りは、下手なものをお見せすると恥ずかしいから、頑張らなければね。
13人家族で暮らしたこともあったからね。それも、1カ月、2カ月のことじゃないんだから。うちの父さんが海から魚を獲ってきて、米に換えて持ってきても、すぐなくなってくるんだ。家族が1人2人だったらいつまでも残ってる量でも、13人だとあっという間になくなるでしょ(笑)。
シラスを網でとって干して、大きな南京袋にいっぱい詰めて、自転車で商いに行ったなあ。本当にうちの父さんも苦労したから、私は実家を離れられなくなったの。
商いというものはありがたいものだよ。海のものがあれば、それが米にもなれば、菓子にもなれば、何かになる。
私は行商に出るのが好きで、いろいろ歩き回ったの。昔のことだから食料もない頃で、魚や海草を獲ったら市場に持っていって、その他は神社に祀ったり、行商に出て売ったり、お米に取り換えてもらったりしたんだ。
行商に出ると、近所のお寺の養蚕の神様に石を積む人たちが9人くらい来ていて、私が行けば魚もすぐ売れてなくなって、ありがたいことだった。タダではもらえないからってお米をくれたこともあった。魚を持って行って、お米を持って帰って、大変だったけれど、私たちも助かったもんだよ。
うちの父さんの昔から知り合いで、農家するときに馬を借りてきてね、馬追もしたよ。
馬というものは、人の何倍も働いているから、かわいそうでな。飼料なんか背負わせて行ったけども、それを降ろしてあげると食べさせたくなるのさ。そして、かわいそうだからって食べさせたら、今度は馬が私の根性見て、食べさせなきゃ動かなくなるの。私って本当にへんてこな人だけど、優しいことは優しいんだよ。(笑)
小学校に入るころ、親父が栗原の隣の瀬峰(せみね)の小学校に転勤しまして、そのとき私もその小学校に入学しました。その後、小学校3年生の頃、親父は仙台に転勤し、私も仙台の長町小学校に転校しましたが、ちょうどそのころに父親が病気になって、夏休みには小泉に帰って来たんですね。
そのころ、前から夏休みになると、母親に連れられてこの小泉で遊んで行ったものです。そのころの小泉のイメージは、自分で画用紙にクレヨンで描いた海水浴場のものなんです。夏休みなるとしょっちゅう遊びに来た、思い出の多い赤崎海岸の絵です。
たぶん、小学校1年生頃に描いたと思うんですが。その海水浴場は水平線があって、下の方に松があって、すぐ近くに矢倉みたいな飛び込み台があって、そこに人が1人立ってて、1人が中間で逆さになって飛び込んでる姿、もうひとりは飛び込み台の真下に居て万歳している。子どもの絵ですから遠近法って言うのはないんですね、物理的に不可能な絵です。
津波の前ですが、その絵を子どもたちに見せたんですよ。「何でこんな絵描いてるの?」って言われました。この絵は、小泉の家の蔵の2階の方に包んでしまってあったんです。
思い出の海岸は、綺麗な海水浴場があったんだけども、今はもう、津波で松林もありませんし。白砂青松ってことばがあるんですけどね、その海岸もいまなくなってだいぶ海が深くなってきてますよね。小泉の人間として非常に情けない、そういう気持ちですね。
もう一つ、画用紙にお祭りの絵を描いたものがあったんです。地面を描いて、神社を描いて、そこに打ち上げ花火が描いてあるんですね。ああ、これは神社のところに花火があったんだ、小さい頃は八幡神社のお祭りのときには花火が上がったんだなあと思いだしましたね。子どもにも「お父さんが小さい頃にはこう言う風な花火があったんだよ」ということを教えてやったりしたんです。
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