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親父が早く亡くなったから、私は遠洋漁業やめて帰って来て、漁は沿岸だけにして、その合間に、最初は海苔をやったのね。ここほら、波穏やかだから、この辺一帯、全部海苔網だったの。竹を立てて、海苔網張って。
海苔を始めるのに、最初は天然の海苔のタネつけといえば、垂下式だったのね。元の歌津町でも浜の漁協とこっちの漁協と2つに分かれてんだ、漁協が。で、こっちの漁協だけで、研究会っつうのをつくって、指導員さんには県の漁協の方が来て、あとはこの辺の水平の高さと干潮時の高さ、いろんなの測って、このへんさ網をはれば、この水位さえあれば、ここの部落では海苔が付着しますつう格好で。
一番最初は海苔の胞子をとって、貝殻につけて、それを生育させて、温度と日光の具合をみながら熟成させてる。それから張った網さつけるんだけども、その時期になったらば、海苔のタネ付いてる貝殻は、最初真っ黒くなってるんだけど、紫色になるんですよ。それが、胞子を出せるようになってる海苔の色。3日目ぐらいなると、波で揺られるうちに、その胞子が消えてもとの貝殻のように白くなるんです。顕微鏡で見ると、胞子がみんな、その海苔網さ付着してる。
海苔もしばらく良かったんだけども、だんだんね、松島の方におされて、ダメになってきて、それに代わってワカメに切り替わりました。
また、父親が、ものすごい量の海苔を収穫して来てね。今は全部津波で流されたけれども、松島あたりの島で採って来たの。
うちの妹も「働き者(はだらぎもの)」でね。その妹と2人で、朝3時に起きて、大きなカゴに水を入れて、海苔を入れて、きれいにして、パンパンッと干して、3,000枚くらい仕上げたんだ。水場のないところだったから、夫は井戸から水を汲んでくる専門。汲んできた水に片っ端から冷たい氷が張ってくるほど空気が冷たくて、ふうって息で暖めてたよ。
それから、志津川の松原っていう所に田んぼがあって、そこにヨシが多いから刈りに行ったの。そいつを一本一本干して、編んで、切って、海苔を漉く「海苔簀(のりず)」っていうものを作ったの。あと、今のように機械でないからね、「トウバ」っていうものを作ってさ、そっちもこっちも日の当たるところを作って干すの。
女の人たちがみんな来て、ワーワー言いながら干した海苔を剥がして、おもしろいもんだった。そうしているうちに、父さんと主人はイワシ漁に行くんだ。夕方に行って、差してきたものをまた上げに行くんだから、相当辛かったと思うよ(イワシは光に集まる性質があるので、夜間に操業する)。あかぎれに薬を塗りこむ日々が続いたね。
夜に海苔を10枚ずつ勘定して100枚ずつ束ねて、箱に入れるんだ。だから主人もみんなも、(お金が沢山貯まって)ホクホクさ! ホクホク(笑)。
だから私はね、お金というもののありがたみは、さっぱり感じなかったのさ。「けせぇ(ちょうだい)」と言うと「けら(あげる)」って言われるから。子どもたちのものを買うときも、切りつめたことしないで、「なんぼ使う?」って訊かれて、父さんにもらえたの。
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