まず、製材所の社長か専務か、山を見て、山を刈る。
そして今度は自分の雇ってる4~5人の木挽きさ山に入れて木を切らせる。
切ったのを地駄引きで「なんぼ(の料金)で出してくれ」と頼む。
出したのを今度は自分の車で持ってって、製材する。
こういうふうですから、人手が何人もいったんだね。
今は、森林組合は森林組合でチェーンソーで木を切って現場さ運んで、1カ所に集まった材木を自分たちで入札して買うだけで機械化も進んだから、そういう地駄引きもいらなくなったし、木挽きさんも少なくなった。人足も淀むし、諸経費がかからなくなった時代だね。
宮城県企画の昭和41年当時の林業の盛り上がりを伝える東北放送の番組のナレーション
(この放送からわずか半世紀で、安価な外材の流入、それにともなう林業の流通改革の遅れによる価格競争力の喪失により林業を中心とした町の振興計画は根本から絶たれることになった)
東和町の代表産業は何と言っても木材産業と言えましょう。町内に8軒ある製材所が扱う木材は年間9,000m3。杉や松を中心とした良質の木材です。建築ブームにのって耐久性のある内地産の木材はこのところ飛ぶように売れると言います。県下でも1、2を争うというこの製材所でも機会力を導入して生産力を高める努力をしています。それでも注文に応じ切れないと嬉しい悲鳴を上げています。
この辺りは古くから炭焼きが盛んでした。今でも500人余りが炭焼きを続けています。焼けば焼いただけ思う値で売れた時代はとうに過ぎ、最近は山を離れる人々が急に増えています。Aさんも厳しい割に収入の少ないこの仕事をやめようと思ったことが何度かありました。しかし沈んだその気持ちを引きたてたのは、この辺りの炭がどこよりも質が良いという誇りでした。東和町の木炭は原木に恵まれ、業者の間では最高品として高評を得ています。当面は目標の20万俵をここ当分は維持していけそうです。
町の面積の83%を占める北上山脈は低くなだらかで格好の林業地帯としての条件をそなえています。広い山林を計画的に管理して、杉と松とを中心にした、人工造林地帯を作り上げることが東和町の目標です。
植林は苗木を植えてから伐採の期間が30年にもおよび、比較的経営規模の小さなこの辺りでは、山は持っているものの、長い間の投資に耐えられるだけの資本力のない人がほとんどです。せっかく植林はしても伐採までの期間を出稼ぎに頼るしかありません。そのため肝心な山の手入れがおろそかになることもしばしばでした。
協業によってできた東和林業組合。機械を導入して近代的な林業を目指して指導的な役割を果たしているのです。西郡、米川、米谷の各森林組合が、町村合併に伴って統一されてから、25%だった人工林を90%内外まで拡大するよう活動を行っています。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ