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青年団っていうのは本吉地区や気仙沼地区の青年が集まって町単位で作るんです。男女問わず、18~34歳までの男女で、本吉町の連絡協議会の管轄区域に住所があれば誰でも入れました。地区の上に宮城県青年団連絡協議会、さらにその上には日本青年団連絡協議会っていうのがあるんです。
各地の青年団の主催で「青年文化祭」や「青年体育大会」っていうのが大規模に行われていたんですよ。文化祭っていうのは、合唱、演劇、郷土芸能が披露されて審査されて、そこで選ばれた人が県の文化祭に行って、県の文化祭で最優秀賞取ったら、その上の全国の文化祭に行くという大きな大会でした。文化祭のお世話は、地区ごとの青年団が毎回持ち回りでお世話役を、交代でやりました。いい大人がヘタな演劇、脚本から全部つくっての創作演劇なんかを練習してやるんで、随分面白いです(笑)。青年体育大会っていうのも国立競技場を貸し切ってやるほどの大規模なものでした。
青年団は毎月、何かしらの行事がありました。お茶会とか飲み会とか(笑)。結構、周りの人とも仲良くなれるんです。私たちの時はちょうど活動の盛り上がりがピークの時で、シンガポールでの海外研修にも参加してきました。私たち本吉町が国外研修一期生でした。次からの人たちは中国やハワイに行っていましたね。そんなふうに、私たちの時は青年団活動が盛り上がったんですよ。
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この辺のお祭りは、小泉八幡様のお神輿ですね。9月10、11日にやったんですよね。その神社には、たまたま津波が乗らなかったので、30年ぶりにお神輿を担いだんです。担ぎ手がいないので、最近は人が担ぐんじゃなくて、トラックに乗せて回ってたんですよ。結構重いですし、20人はいないと代わる代わる担げないんです。
だから、ボランティアの人たちにも、今回は助けられたかなと思います。地元の人もみんな喜んでいましたね。
私自身は、子どものころのお神輿の記憶はなくて、父ともそんな話にはなりませんが、たぶん、地元の青年部にいたようなので、お神輿を担いだと思いますよ。
蔵内地区には、子どもたちの虎舞っていう太鼓があって、子どもたちは叩けるんです。
うちの実家のあんちゃん(奥様のお兄さま)は須賀神社の平磯虎舞(天保時代から受け継がれている。打ちばやし独特の勇壮なリズムと繊細な舞いが見もの)っていう郷土芸能で太鼓をやったんですよ。平成3年、それで全国青年大会で最優秀賞を取りました。
津波で、アワビの稚貝が激減したので、もう一度稚貝から育つまでは、3~4年かかると思うんです。アワビは9センチより小さいものは規格外で獲ってはダメなんです。獲ると密漁ですよ。だから、獲るときに大きさを計るんです。小さいと海に返します。
アワビの食感ですが、テレビなんかで「アワビはコリコリして歯ごたえがあっておいしい」っていうのは、あれは嘘ですからね。獲れたてはすごい柔らかいんですよ。1月は風が冷たいので、暖を取るのに七輪を船にのせていますが、その上でアワビを焼いて食べると、香ばしい匂いがして、ほんとにおいしいんです。これは漁師の特権ですね。
田束山(たつがねさん)に行ってみるといいですよ。あそこは、藤原秀衡(ひでひら)があそこを開山して、お経の筒を埋めたんですよね。それが発見されて、霊山と呼ばれています。
お祭りは、5月6月に旧歌津町と旧本吉町でつつじ祭りっていうのをやってたんですよ。旧本吉町というのは、今は気仙沼市と南三陸町に分かれてしまいました。地震で倒れてしまったんですが、三十三観音像や、不動明王像もあります。観音像は大体1メートル50センチくらいのが33体あって、あと高さ5~6メートルの不動明王が1体あります。
大谷地区ってありますよね、あそこは大谷鉱山って金が発見された場所です。藤原氏は金色堂で有名ですが、関係があるって伝承があるんですよ。(注※この地方の金が、奥州藤原氏の黄金文化を支え、平泉中尊寺金色堂に使われたともいわれている)金の採掘の歴史は相当古いものだと思うんです。大谷鉱山は石巻の金華山の下までトンネルが続いてるっていう話もあるくらいですからね。
実はうちのじいちゃんは大谷鉱山に行っていたんです。それが閉鉱になってから、シーサイドパレスで働いたんですよ。
私が子どもの時っていうのは、ゲームなんかない時代だったので、外で遊ぶしかなかったんですね。ボーリングのようなお金がかかるようなことも眼中になく、海遊び、山遊びが得意でしたね。
蛇なんか平気で素手で捕まえてましたよ。そのなかに「ヤマガカシ」っていう、毒蛇で、ほんとは危ないのも混じってたっていうのを、つい最近知りましたから(笑)。
このあたり、蛇は結構いますよ。青大将とか。捕まえてどうするのかって? 友だちの近くに投げるんですよ(笑)。今思えば、かなり問題になるようなことばっかりやってたんですよね(笑)。もう周りがガキ大将の集まりみたいな感じだったので、誰が一番って事じゃなく、みんな過激でした。
たとえば、缶蹴りをやっても、力の加減がないので、川に蹴ったり、堆肥に蹴ったりとか(笑)。それでもルールはルールだから取りにいかなきゃいけないんです。缶を蹴って、最高で屋根に乗っけて、それをはしご使って登って取って来いって言うんですからね。その間に隠れるんですからね。私たちは、ほんと同年代には遠慮しなかったです。あの当時の私たちが今ここにきて、本気出して子どもたちと遊んだら、過激すぎるでしょうね(笑)。
私たちは結構やってたんですが、気仙沼線の線路の上を歩いて行って、トンネルの中を歩いて、わざと汽車が来る時間まで待つようなこともやりました。退避溝の中に隠れて汽車が来るのを待つんです。
チキンレースもやりました。田束山(たつがねさん)の頂上まで自転車で行って・・ブレーキをどこまでかけないで降りて来れるかとかね。麓まで降りてブレーキかけるとブレーキのゴムのパッキンが蒸発するんです。
親も止めませんしね。「お前行って来い」って(笑)。怪我してもいいけど入院するような怪我はするなと。子どもは口で言ってもわからないですから、実際に体験することで、どこまでやれば人は怪我するんだなとか、考える力がつく。
喧嘩をしても、自分が悪いんだったらすぐ謝り、自分が悪くないんだったらなんで悪くないのかっていうことをちゃんと相手に認めさせなさいといけない。力に訴えるのは、もう最後の手段です。殴り合いをするときでも、モノ持ったりはしないという暗黙のルールがありました。次の日は、ノーサイドです。喧嘩したのも忘れて。ふたりでお互いにごめんなさいってね。たんこぶだらけでね。
ゲームの時代になって、自分の子どもは外遊びをやらないから、全然そういう面白さがわからない。かくれんぼはたまにやっても、私たちから見れば「え、それだけ?」みたいなもの足りなさがあります。もうちょっと過激なことやればいいのにと思いますね(笑)。
知らない人が多いと思うけど、私たちの時っていうのは、「ケッタ」というすごく面白い遊びをしたんです。あの石投げてやる「カカシ」と、「かくれんぼ」と、「だるまさんがころんだ」を融合した遊びなんです(遊び方は、谷さんが詳しく書いてくださいました)。
これは大谷地区にも津谷地区にもない、小泉地区だけの遊びなんですよ。たぶん私たちの年代だったらみんなやったことがあると思います。親父の年代だったら知ってますね。同年代、そしてちょっと下の年代だと、3つ4つ下くらいまではわかるんじゃないかな。
ケッタは対抗戦も面白いんです。ちっちゃい子と大きい子が喧嘩してね。踏んだとか踏まないとかね。見つけてないのに名前言ったとか。今やっても本気になると思いますね。
「ケッタ」は自分の子どもたちにも伝えたいんですよね。
秋はサケ、夏はヒラメですか。冬だったらアワビを獲ります。ここのアワビは、養殖したのを放して、それが大きくなるまで待って獲るんですよ。
ウニは自然にあるものを獲ります。ここのはムラサキウニといって、北海道なんかのバフンウニとはまた違って、ちょっと甘いんですね。ウニ丼なんかおいしいですよ。ご飯よりウニの方が多いですからね。
あとは「振興会」というのがあって、人と人とのつながりを作るためにスポーツやゲートボール、そういったイベントとか、体操とか、そういう「年寄りが元気になるには、どういうことをしたらいいか」というのをやるわけね。というのは、今は病院へ行くと年寄りばっかりでしょ? 何でもないのに病院に来ては負担を大きくしている。年取ってくると体を動かさなければならない。体を健康にすればするほど、国はお金がかからないでしょ。
また、その「振興会」とか「契約会」とか「老人会」とか、別々の集まりが一緒に何かをやる場合もあるわけ。どっかでつながる点があるわけね。
「シルバー人材センター」が本吉に発足することになったときは、2年間理事をやらせてもらいました。そういう人の世話をする役回りが嫌で、静かにおとなしく暮らしたいと思って田舎に来たのに・・。
最初は、お掃除とか、買い物とかの仕事がほとんど回ってこないの。でも、段々とシルバーに頼んでくれる人が増えてきました。農家の人なんかは、段々年取って田んぼをやる労力が足りないのね。で、そういう家事を頼むのね。安くてやってくれるし。人材センターにいるお年寄りは、みんな現役をやっていた人だから、助かっているんじゃないですか?
本吉町は、国の推進事業として(平成の大合併)、平成21(2009)年9月、気仙沼市と合併をしたんです。合併に反対する人もいたけど、賛成する人もいて、メリットもあったんだけど、結局、合併してみたらデメリットの方が大きく出てしまったんです。財政的にも安定していたのに、貧乏になっちゃったし、議員さんも少なくなってしまいました。
私自身は地元の印刷業に勤める普通の会社員です。田植えの時期は、家の手伝いもしますよ。漁業の手伝いもします。
漁には子どもの頃から一緒に行ってましたね。アワビやウニの開口っていうのは、台形型をした筒状の水中メガネのようなもので海中を覗くんです。底は透明のガラスになっているんですね。それを見ながら、先に鉤がついた竹竿で一個ずつ引っ掛けるんですよ。ウニを引っ掛ける時は、2本の鉤で、アワビは1本の鉤で引っ掛けるんですね。うまい人だと1日で100キロも獲るかな。私はそんなに獲ったことないですが。
潜ってはだめなんですね。許されるのは、船に乗って竹竿を使って一個ずつ獲る漁だけ。千葉の房総なんて行くと、向こうは海女さんが潜って獲る。男は船を運転して、女の人が潜って獲る・・それもやっぱり場所が決まって時間も決まってるんですね。でも私たちはこれ一本。船に何人乗ってもいいんだけど。うちでは3人かな。前までは親父と一緒に漁に行ってましたが、今は行ってないですね。
獲る日と時間は、決まってるんです。漁業協同組合に何時から何時まで獲っていいですよ、っていう日があるのね。それを開く口って書くんですが、開口日と言います。その日の長くて2時間か3時間くらいだけ捕獲が許される。だから忙しいですね。
ウニは6月から8月まで、アワビは11月から1月まで、その期間内に、何回か開口日があるんです。毎日ではないんですよ。波が高かったりしたら、その期間内に2回しか開かない時もあるし、5回も6回も開く年もあるんです。
海産資源は貴重ですからね。その期間外に獲ると密漁になってしまうんです。漁業権持ってる人じゃないと、この開口日に漁には行けないんですね。だから船があれば誰でも行けるっていうわけでもない。うちは親父が持ってたから、家族みんなで開口に行けました。
時間が短いと思うかもしれないけど、アワビっていうのは、中国料理の干しアワビの原料に使われていた時は、1キロ1万円した時期もあったそうです。最高値で1キロあたり1万2000〜3000円、つまり計算すると、1個獲ると1000円になるのね。アワビの価格のピークは、じいちゃんが生きてる時だから、15〜6年前までですかね。今は量も減ったし1キロあたり5000円ぐらいと、ずいぶんと安くなってしまいました。
開口のときの海はすごく綺麗でなんです。真冬だと、陽が上ってくると、海の温度の方が高いから、靄(もや)みたいなのが出るわけですよ。写真があれば・・写真が流されてしまったのが惜しいですけど・・。
いろいろな地域の集まりに参加して、「変わってるな」と思った会があったの。それは「契約会」と「振興会」。
「契約会は一家の一番の長老が入るもので、すぐに入らなきゃいけない」と言われて、「契約会ってなんですか?」と聞いたら、「契約会で契約するんだ」と言われて、なんで契約するのかわからない。「入るのにお金を払って、契約書ってあるんですか? 領収書ってあるんですか?」と聞くと、「そんなの一切ない。昔からの伝えで今まで来ているんだから、習慣だから」と言う。さらに、「ここで死んでもこのお金は返さないよ。ただ、ここから出て行ったらお返しします。出ていく時には返すけど、突然出て行ったら返さない。その土地に住んだままで『辞めた』って脱退する時も返さない」って言うの。
変わってるなと思いました。意味がわからないから、どういう会なんだ?と思って、「契約会の規約みたいなのはあるんですか?」と聞いてみたんです。そしたら、「そんなのある訳ねぇ」って。「今までの人たちは理解して入っているんですか?」って言ったら、「あんた良いこと言ってくれたね」って言うんだけど、そのまま(笑)。「契約会」はご神木って言って昔から杉の木を持ってるのね。土地は本吉町所有の土地なのね、杉の木は、みんなで集めたお金でもって買ったものなんです。木が売れたら配当しますという趣旨なんだってね。それくらいがメリットと言えばそうなんだけど、今は杉も価格が下落しているし、それも切り出して運ぶのに売値以上のお金がかかるから、資産としては全然ダメなんだって。配当はもらったことがありませんね。
うちのじいちゃんは、15、6年前に亡くなりましたが、今、小泉の海岸沿いに建物がぽつんってありますよね。あそこは前、かなり有名な遊園地(シーサイドパレス)だったんですよ。そこで働いていました。
あの建物の中には温泉があって、ボーリング場もあったし、動物もいたし。温泉はね、水族館みたいな大きな水槽があって、温泉に入りながらその水槽が見えるっていうのがウリだったんです。私も行きましたね。祖父が働いていたので、たまにこっそり入れてもらったりしてね(笑)。ボーリングは全然できませんが。この施設は昭和53年に閉園になりました。
私は生まれも育ちもずっと小泉なんですよ。住所で言うと、本吉町中島っていうところです。赤崎海岸の近く、川のそばですね。潮干狩りができる場所です。
私は昭和49(1974)年2月12日生まれ。長男で、下に男、女、男、女の順番で5人きょうだいです。一番下が24歳で14歳も離れてるんです。みんなひとつ屋根の下、一緒に住んでた頃はかなり賑やかでした。今はみんな独立して、一番下だけは仙台に住んでいますが、他はみんな近所に住んでいて仲がいいんですよ。
今の家には、ばあちゃん、お袋、親父がいて、私と嫁さんがいて、私の子ども。4世代同居です。この辺では珍しくないですね。長男があとを継ぐっていうのはこの辺ではざらなんです。
実家は農業との兼業漁業ですが、親父は中距離トラックの運転手をやってました。東京などに行くので、帰ってる時に集中して漁業の手伝いをしたんです。
私は、本吉町の国際交流事業にも関わっているんです。「本吉町国際交流協会」は、平成3(1991)年に組織されて、今も続いているんですけどね、国際交流ですから、特定の国だけでなく、どこの国でも交流していきます。
私の考えでは、「子どもたちに道徳教育を」と同じように、「子どもたちの視野を広くさせ、大きな目で日本と地球を考える大人に」そういう思いで、幼稚園、小学校、中学校の子どもたちと、外国人とを交流させているんですよ。この辺りには外国人は住んでいません。ですので、学校から仙台の国際交流協会に頼んで、そこに登録している外国人留学生のかた中心に、子どもをかけてもらって、年に1~2回、6人くらい小泉に招いています。小学校だと6年生まであるので、外国の方6人呼んで来ると、ちょうど1学年ずつ交流できるんです。
津波の後は県の国際交流との連絡も途絶えてしまったんですが、9月半ばごろ、所用で仙台に行った折、国際交流協会に寄ることができたんです。そしたら職員の方に「ああ、会長さん、生きてましたか」って言われんですよ。その時はすでに会長ではなかったのですが、かつて国際交流協会の会長を勤めていたので、そう呼ばれるんですね。
「いや、会長さんが連絡がぜんぜんとれなかったので、仙台の協会のほうに外国からどんどん電話やメールで問い合わせが来たんですよ」と言う。本吉の小学生中学生と交流してた留学生あたりから来てたんですよね。たった1日、2時間くらいしか交流する時間はなかったのに、母国に帰ってって子どもと交流をしたことを覚えていて、津波があったと聞くと、「本吉の子どもたちだいじょうぶですか?」とか「会長の山内さん、お元気でしょうか」と言ってくれる。
外国の方々も日本を、しかも2時間だけの交流をした子どもたちもですね、心配してるってことを身にしみて感じたんです。そのことでも、国際交流って事業はこれからも続けていかなくちゃならないなと、思ったんですね。
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