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まず、製材所の社長か専務か、山を見て、山を刈る。
そして今度は自分の雇ってる4~5人の木挽きさ山に入れて木を切らせる。
切ったのを地駄引きで「なんぼ(の料金)で出してくれ」と頼む。
出したのを今度は自分の車で持ってって、製材する。
こういうふうですから、人手が何人もいったんだね。
今は、森林組合は森林組合でチェーンソーで木を切って現場さ運んで、1カ所に集まった材木を自分たちで入札して買うだけで機械化も進んだから、そういう地駄引きもいらなくなったし、木挽きさんも少なくなった。人足も淀むし、諸経費がかからなくなった時代だね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
北海道から帰ってきてから、炭焼きの仕事を始めました。炭焼き窯も2つくらい持ったりして、夜通し働いて。なぜなら炭焼きの仕事は、きついのですが、働けば働いただけ稼げたのです。畑仕事で日当をもらっている身分では、雨が降ったら仕事ができないから、給料がもらえないでしょう。でも炭焼きの場合は、天気のいい日には一生懸命木を切って集め、雨の日は炭焼き小屋で炭を引いて片づけたり、天候にかかわりなく、何かしらすることがあって、365日働けたのです。
しかし、それでも決まった収入しか入らないので、今の世の中、これではだめだと思い、車の免許を取りました。田んぼから稲を積んでくるにしろ、山から木を持っているにしろ、その頃は荷車でものを運んでいた時代で、自動車などなかったのです。だから、これが仕事になる、と思い、自動車を買うお金はなかったので中古のオート三輪を25万円で1台買って、1回600~1000円くらいの料金で荷物の運搬を請け負いました。1日に5台は運ぶことができました。
ある程度仕事も増え、1トン積みの三輪車では荷物も積みきれなくなり2トン車を購入しました。農協からも配達の仕事を頼まれ、運送事業も順調に推移しました。その頃、父は木炭組合(炭焼きをしている者200人ほどで構成された組合)の専務の仕事をしていました。生産された炭の一部は業者に、一部は農協に出荷していましたが、農協では木炭の販売で多額の赤字をだし、理事会で木炭の取り扱いをやめることになりました。
生産された炭は在庫が増え、業者に安く買いたたかれる状態で、それを見かねた私は、木炭の販売を引き継ぎ県内の農協に販売をしたのでした。
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