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ここではね、津波で流されたっていうのは、明治の末あたりで。だけんど、ほとんど家流されたという被害はないのね。昭和の津波なんかもちろん、私たち昭和8(1933)年の津波は実際に見てっけっども、ほとんど、家流されたっていうのはここ少ないんだべ。
ただ、明治の津波とは、もとの私の家の、あのくさや(草葺きの家)の家で、玄関はいって、土間になってる中を、波が来て大きな石がごろごろ行ったり。それでも家は流されねえで。被害はほとんど無いんだけっども、歴史的には、先祖が昔からここに住んでいた「元屋敷(もとやしき)」がこんな海岸にあった、とかという話はあるね。ここ寄木は昔から、家の戸数は増えなかったけんども、天然の漁港としては歌津町としては昔から一番良い。
そのために、こういう「ささよ」も残っているんだと思うんだ。漁師としては、他の部落より、みな秀でた漁師たちが多かった。それが、こういうので伝わったんでないかと私なりには感じてんだけどもね。
うちの屋号は「いかざ」というんだ。平仮名で「いかざ」。漢字で書いてもいいんだよ。烏賊(いか)という字、漢字で書くの大変だ。イカ釣り船が、そこさ来て、船(ふね)繋(つな)でおいだ場所だから、「いかつりざ(烏賊釣座)」と最初言ったんだな。「つり」が長いうちになくなって、「いかざ」となった。こんな屋号というものは、日本のどこにもそういうものはないんだね。屋号は家の名前。だから、新築するとき、私のうちの屋号はこれですよってご披露する。こっちでは何と(いう屋号に)決めてんだ。
こっちの下のほうの家は、日(太陽)が向かいから上がっから、「陽向」と書いて「ひむかい」です。太陽の陽さ向かえいれる字。大きい財産家の家っていうのは「おおいえ」とか、伊里前だと町を仕切ったんで、ナニ町切(ちょうぎり)とか、山の根元にあったうちは、「やまね」って屋号ついてたり。向かい側のほうにあったうちは「むかい」ってついてるところもあればね。海岸の近くに瓦の近くにあるのは「かわら」とかね、一番下手にあった家が明治の津波で400mぐらいずっと奥さ流さたんだけど、上(かみ)に新しい家建てても、昔あった屋号で下(しも)という屋号なんだ。こういう風に、ぜんぶ屋号あっからね。
ここは、1軒残らず流れました。明治以降、昔からの家は全部です。お寺まで流されました。チリ地震のときは道路が濡れて床下くらいでした。前も話したとおり、この辺りはあんがい被害の少ない場所だったんです。明治のときも伊里前の人は2人くらいしか亡くなっていません。伊里前と言うところは、三陸町でも中心地でした。方々から用足しにやってきて、買い物をして帰っていく。年寄りはここでお酒飲んで帰る人もあるし、お菓子食べていったり、集合の場所でもあったんだと思います。
朝になって、もう火にくべなくなったので、避難所にいて、朝早く戻ってみたら、ここ(小学校)まで打ちあがってました。そして、下を見たら、何もない。伊里前の町が本当に何も残っていませんでした。4キロくらい海までずっと瓦礫ばかりがずっとです。
警報がどうなったとか、連絡も何もありませんでした。電話が来るわけでもない、ラジオもない、テレビもなかったです。家の茅ヶ崎にいる弟が、ラジオで尋ね人で貞雄さんのところを呼んでいるよと人づてに聞いても、連絡のしてみようがなかった。5日目にようやく災害電話が通じて、一言二言声を聞いて話すことができました。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
昭和8(1933)年、私が4歳のとき、三陸津波にあいました。その時、今の伊里前小がある場所まで避難しました。当時は、下に学校があったけれども、上にも校舎はありました。上校舎といいました。私の家の裏が旧校舎、その並びに中校舎、坂の上が上校舎です。当時も地震のときは上校舎が避難場所になっていました。4歳だから、地震があったのも、津波が来るということも、わからなかったです。ただ、兄と上へ来て避難して、外で焚き火をしていたのを覚えています。「どこそれまで、今、波が来たぞ!」という大人の声が耳に残っています。夜は家に帰ったのかどうかも覚えていませんが、夜起こされて学校のところにおしっこをした時、学校の校庭で焚き火をしていた兵隊さんがいました。後日、もう一部隊、小隊が災害の復旧のために来たというのは、後から聞きました。
伊里前は、明治の津波のときも、割に被害が少ないところなんです。明治のときは海岸は浸かったと聞きましたが、海のほうはどうだったとか、色々聞く話しはあっても、伊里前は被害が少なかったようです。住みやすいところだったのだと思います。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
今度の津波のときも、昭和8(1933)年のとき助かったように、柳沢の奥のほうに逃げて行けばいいと思って、手押し車持って行ったのよ。それで足も冷たいし、中に入り込んだの。
その時孫が、金曜日で、遊びさ行ってきたばかりでね、そんで地震があったから、今までの地震と違うと、地震にたまげて、訳分かんなくなって(動揺して)しまったのよ。
それで、「早く、車さ乗れ、車さ乗れ」って。そうして今語るわけさ。車こうしてあるから。あれさえあれば、どこさ行ってもいい。たたんでね、それさ積もうと思ったの。そうしたら孫が怒ってね。ラジオできょうの津波のことを詳しく言ってるんでないか、と思ったのね。そして、実家さ行ったのさ。
そこまで行けば大丈夫だと私も思ってだんけど、そこも、みんな逃げてしまって、いなくなって、うちのおばちゃん一人なの。おばちゃんも車に乗るなり、「早く! 早く行け!」って言うんだっちゃ。だから孫の言う事聞いて車に乗って、田束山(たつがねさん)ていう小泉の一番高い山の中盤の、遊び場があって、そして、トイレがあるとこ行くっていうのさ。そこなら安心だからって。そこへ連れていかれたの。だから津波は見なかったわけ。
私たちと孫はね。「とにかく早く乗れ」ってことで、そこへは、一番先に着いたんだよ。あとからどんどん他の車が来て、夕方には駐車場がいっぱいになったの。それで、そのあとは、高いところにあるから、小泉中学校の体育館に行ってきた。雪っこも降ってきた。
二十一浜の人の話、聞いたんだけど、そこは真ん中に川があって、両側は山で、川の両側に家建ってんのよ。だから逃げるっつたら、山さ上がって行くのね。山さ上がって津波の来るのを見てたんだって。見てた人、一杯いたんだって。その人たちから話を聞いただけで、私は何も見なかったの。そしたら、小泉の町が流れた、さっき通った実家も流れたっていうんだもの。ほんとに驚いた。そうしたら、陸前高田も流れた。志津川も流れたっていうからねぇ、夢にも思っていない。
こんな津波が千年前に来たんだって、そんなこと、だれも昔話だって思うね。明治の津波のことは聞いてたけども、そんな千年も昔なんて、そんなの、もう誰も聞いてないし、誰も知らない。語りおく(語り継ぐ)も何も無かったからね。それまで、こんな津波が来ると思ってなかったんだよね。そしたら、みんな無くなってね。でも、昼間だからまだ良かったんだよね。波が来たのが夜だったら、まだ亡くなった人もいっぱいいたでしょうね。
今、津波はこんな目にあうと思わなかった。夢にも思わなかったね。
ここではね、明治29(1897)年にも、津波があったんです(明治29年津波)。みんな家を海の近くに建てたんだって。海さ行くのに便利だからね。堤防も何もなくて、ポンと行けば、磯まですぐ出られるところなの。言い換えると、すぐに砂原のところで、波が来るとこなんですよ。
昭和8(1933)年の津波とき、私は数えの10歳で、そのことをしっかり覚えてんです。そんとき、堤防がなくて、沿岸に住んでいた人はみんな流されたの。そのとき私が住んでた柳沢の家は、ずーっと奥の方に建ってたの。だから、津波が来ても流されなかったんです。そのあと、農閑期の人が土方やって堤防を拵(こしら)えてたんです。
昭和8(1933)年に流されたところに、その後も住んだ人もいます。戸数はそんなに多くなかったけれども、戸数のわりには住んだ人が大勢いたのよ。
昭和35(1961)年のチリ地震津波のときは、家にいなかったんで、経験していないんです。その時は用事があって、おっかあの実家の岩手の東山に行ってたんですね。家は大丈夫でしたよ。海面から家までの間が高さ3メートルぐらいあったからね、すれすれまで津波は来たけど、大丈夫だったんです。
明治29年の津波の話はおっぺさんに聞いてました。その頃は、護岸工事なんか全くしてなかったから、みんな海岸に家を建てていたんですね。だから津波で歌津村では800人くらいは亡くなったようですね。家も270か280戸くらいが流出したんです。おっぺさんはそのころ若かったから、海岸の桑畑があったんだけど、そこの桑の木の、太い幹の上の方に登って助かったって話もききましたね。
昭和8(1933)年の津波の時は、明治の津波の事をみんな聞いてたもんだから、家の前に石垣をずうっと造ったものでした。伊里前地区は石垣をみんな高さ3メートルくらい作っていましたからね。だから、あんまり被害がなかったらしいんです。伊里前は亡くなった人がただ一人だって聞いてますね。ただ、歌津町の外れの、浜の方の、工事しないで石垣も何も無いところの家が60何軒、流出したという事もきいています。
チリ地震の津波のあと、その石垣をコンクリで固めて、さらに3メートルくらい高くした、その防波堤が今回の津波でみな取れてしまって何もないんです。
明治29年の津波のあと、みんな高いところにいったんだけどね、家の実家があったところは、大体海岸から25メートルぐらい上がったとこなんだけどね、それでもそのへんまで波が来たんですよ。今度の津波で。だから25メートルくらいの高さがあったんですね。
やっぱり年寄りから津波のことは昔からいろいろ聞いてました。直接おっぺさんからも「津波あったら、高いところ、早く逃げろ」ってね。今度の津波でもね、船がもったいないからって、いったん逃げたんだけど、また、ロープを持って、船を縛りに戻って、2人でもって流された人が近くにいました。
この歌津にはね、天保年間(1830〜1843)の津波も来てたの。大きな津波だったから、私たちが住んでいた海岸には、その天保年間の津波の石碑があるの。田束山(たつがねさん)には「波かけ」という名前の場所があります。ここまで波が来たことを示すんだね。
明治29(1896)年の津波(明治三陸津波)のことは、親から直に教えられたの。
その津波ではね、私(おらい)のお爺さんが1人生き残ったの。それはなして(どうして)かというとね、そのお爺さんは、夜のうちに沈めておいた網(「流し」漁という)を、魚がかかるころに櫓をこいで船で捕りにいったの。昔はイワシでもなんでも夜のうちに網を流して置いたの。となりのお爺さんと2人で行ったんだって。
魚を獲って、今度は家の方へ漕いで帰ってきたら、とっても良い物ばかりが流れて来たんで、最初は珍しいから、それを船にみんな積んだんだって。だんだんに漕いで帰って行くと、渚あたりで人の泣く声が聞こえた。「ああ、こりゃ津波が来たんだ!」となって、拾ってきた物を船がら全部投げ捨てて、その人を乗せたんだって。みんな津波で死んでしまって、「流し」に行ったお爺さん、隣のお爺さん1人、うちでも1人生き残ったと、お袋から教えられたの。津波のとき、沖は津波が来たのが分からなかったっていうんだから。
明治三陸津波ではたくさんの人が亡くなったんだねぇ。葬るのに、火葬になったのは最近だから、墓を掘るのにあんまり沢山の人が亡くなったんで、避(よ)け避(よ)け掘ったんでねぇかなあ。
私たちの先祖つうのは侍だという伝説があります。負け戦だか何かで、へんぴな所に逃げできたんでねえの。その侍の鎧も兜も、槍も全部、明治の津波で流されたの。
小鯖の丘家は、明治と昭和と2回津波に流されたんだって。そのため、少し高いところに来たんだって。その家も古くなったから解体して建てましょうって、壊したわけだ。そして何日か経って、基礎工事始めたら、一晩のうちに工事してる所に、ダダダダって山が崩れてしまったのね。
もうそこには家なんか建てられないから、お姑さんが「また、下の畑さ(過去に津波で流された場所)建てべな」っていうから「お婆さん、下の畑は絶対反対。2回も流されて、何、下行くって。私は行きません」って。「どこ行くんや」「大工さんと相談します」って頑張ったの。
その頃、山の上はこんな杉とか松の山で、うっそうとしていたの。それを切って、突貫工事みたいにして、そして家建てたのが今の家です。私が46歳の時。昭和46年だから、46歳の時、ここへ来たの。なんでそれを鮮明に覚えてるかって言えば、そこのお姑さんに、「50歳前に家建てれば大丈夫、疲れない、頑張らい、頑張らい(頑張りなさい)」って言われた。
ここさ来るつもりも、何も無かったんだがね。下の畑か、この山しか土地がないから、仕方ないからここへきて。お姑さんが、下の畑さ家建てるって言ったら、背中がゾクゾク~っていったの。なんにも影も形もない、全部後ろから脇から、みんなに見られているようで、嫌だなって思ったね。「お義母さん、絶対反対。あのね、あそこさ、2回も津波に流されて、おら寝坊助で、地震があっても寝てっかもわかんないから、絶対行かねえから」って頑張った。お姑さんも、「ああ、そうか」って。そして、「もう、上さ建てるべえ」と行ったのさ。そしたら今度は津波でそこも崩れたもんだ。
あと砂利とか石は馬が運んでくれた。馬、転んでなあ(笑)・・1回坂のすぐそこで転んで、馬転ぶと1人では起きられないんだってね。綱かけてみんなで「ヨイショ、ヨイショ」って起こして。それを見て、私も昔人(むかしびと)だからね、「馬が転ぶなんて、何か悪いことあるんでねえか」と思って、神様さ行って拝んでもらったんです。そのこと、馬引っ張ってくるおじさんさ話してみたら、「アッハッハハア~」って笑い飛ばされた。「誰、そんなことある(誰にそんな縁起でもないことが起こるもんか)? 拝んでもらったって? 誰、そんなことある? アッハッハッハァ~」ってさんざん笑われた(笑)。
ここ、大工さんが8人も働いたのね。坂の下さ、米屋さんで牛乳売ってたのね。大工さんさ牛乳8本と、おやつも作って持って、上まで上がるのね。ビンの牛乳だから、結構重いですよね。それでも「疲れた」とも「大変だ」とも思わないで、「我が家が出る(出来上がる)んだ~」と思って、喜んで上がったもんだ。
お姑さん、新しい家に喜んでね。その頃、歳は70なんぼくらいになるかな。私が働きに出るわけだ、そしたら、私の留守の間に、自分の着物だのね、持ち物は、自分のものは、ひとりで背負って山の上の家に上げたよ。「これ、背負ってけろや~」なんて言わなかったね。全部自分で上げた。お爺さんが船で出ている間に引っ越したのね、女手だけで。金融機関から借金するのも、自分でやったのさ。学校も出ない、読みも数えも何もわかんないんだけど、わかんないば、聞けば教えるもんね。お爺さんさ、ちゃんと報告はするしね。んで、こうして、そうしてってお爺さんから言われれば「その通りにします」って、用足した。
昭和33年に高等学校を卒業して、仙台の大学病院へ臨床検査の勉強へ行きました。その頃はまだ専門学校とかではなくて、大学の研究室で、助手のようにして勉強しました。2年間です。18歳から20歳まで研修して、昭和35年志津川病院に就職しました。その年がチリ地震の年です。国家試験を受けて、資格を取って、帰って来たらチリ地震津波(地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し宮城県志津川町(現南三陸町)では41名が亡くなった)にあったという感じです。
津波が来た時は、朝の5時頃だったので、まだ出勤前で伊里前の自宅にいました。自宅には被害はありませんでした。
親父が「病院が心配だから行ってみろ」と言うので、自転車で志津川へ向かいました。途中、橋が全部落ちてしまっていたので、そこは自転車を担いで歩いて川を渡りました。志津川に入るのに、まず裏山から高校へ行き、近くの同級生に頼んで自転車を置かせてもらいました。高校は高台にあるので、チリ地震津波の時は大丈夫だったんです。
それから病院へ向かいました。ところが、病院の近くまでたどり着いても病院へ渡れない・・。当時病院の周辺には製材所が4つあって、そこの材木が流れていたので、その材木の上をポンポンと越えて、なんとか病院の2階へ入りました。
志津川病院は、今は5階建てですが、当時は2階建ての木造の病院でした。病院自体は流されませんでした。水が残ってハゼとかカレイとかピシャピシャしていたのを覚えています。
前の日には、大小あわせて手術が7件あって、その中で、晩に手術した「えんどうさん」というお婆さんをおんぶして逃げました。屋根の上、潰れた屋根の上を渡って行くんだけれど、途中また波が来て、南三陸町の役場の手前にあった旅館の3階に駆け込んで、波をやり過ごして、そうやって中学までお婆さんをおんぶして行きました。
私も若かったんですね。あの津波の時は、幸いにして患者さんも職員も1人も亡くならずにすみました。今回のような仮設住宅というのはなくて、志津川中学校の体育館が避難所になりました。波が引いたら、みんな自分の土地に戻って家を建てました。
あのチリ津波の教訓を、もう少し真剣に受け止めていたら・・と思います。岩手県の田老町(たろうちょう)というところを知っていますか? あそこも、古い時代(明治29年三陸津波、昭和8年三陸津波)から、津波で大きな被害を受けるというのを繰り返していた場所で、それを教訓に「波返し」というのを造りました。
それで「あそこはもう完璧だ」という評判で、私たちも視察に行きました。それを基盤にして志津川や伊里前も造ったんです。基盤があって、それを元にそれぞれ対策はしていたんだけれど、今回の津波では何も役に立たなかったということです。千年に一度の津波というものの凄さです。
私たちは、三陸沖地震とチリ地震津波と、今度の大震災と、3回も経験しました。しかも、戦争で、いっぱい苦労して育ってね。生きているうちにそういう経験はしたくなかったねぇ(笑)。もっと良いことを経験するならいいけどもさ。
津波は、今度で4回目です。明治29(1896)年と昭和8(1933)年にも津波があったんです。それから、チリ(地震)津波、昭和35(1960)年です。
昭和8(1933)年の津波の時は、私は8歳になったところでした。昭和に入って、学校へ行くのに、津波が3月だったから、5月から学校でした。その時もやっぱり雪が降ってね、その時のことも覚えているけれど、やっぱり高台へ行ってね。今度のようなことは、千年に1回だからね、まさかこんなことになるとは誰も考えてなかったからね。
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