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昭和17(1942)年ごろ東京を引き払い、こちらに戻ってきました。
1年間漁業協同組合に行って、そして小学校国民学校の今でいえば、代用教員の「助教(じょきょう)」に任命されて、月俸28円を頂くことになりました。
教員生活は、戦時中の昭和18(1943)年4月1日、地元伊里前の国民学校から始まりました。昭和31(1956)年まで勤めたんですから。13年間いました。それから同じ町内の、家内の出身学校の名足小学校、そこに11年いて、昭和42(1967)年に、去年廃校になった荒砥小学校に赴任し、そこに4年間いて、最後は志津川小学校に8年間いまして、昭和54(1979)年の3月に辞めました。
教職時代で一番嬉しかったのは、代用教員の「助教」から正規の「教諭」になったことでしたね。それまで数年かかりました。また、その後昭和34(1959)年ごろ「小学校教諭一級普通免許状」というのを貰いました。短大を出ても2級免許状しかもらえないのです。もちろん、長い期間かけて、大学の講座とか公開講座とか、あるいは宮城県教育委員会主催する講座とか受けて、単位を取ったのです。その時の2つは嬉しかったですね。
家に帰って来たところで、戦時中だったから、男の人は戦争や工場に取られていなくて、家に残された女性は一生懸命戦争に協力しなければ、って言ってたよ。女の人は山に行って、松の根っこを掘って、そこから飛行機の部品に使う油を採るって言ってたんだ。そして家に来て不満を言ってばかりだったな。
そのうちに今度は「みんな、軍隊に協力しなければいけなくなったので、気仙沼の鹿折(ししおり)の缶詰工場に行って応援してください」って動員ですよ。勤労奉仕、つまり無料で仕事をするの。でも、だんだん戦争が激しくなってきて、その缶詰工場は艦砲射撃でやられてしまった。爆撃されたときに私は偶然家にいて無事だったの。
命というものは不思議なものだよ。見にいってみると、爆弾が落ちた場所に、4間(けん:1間=約1.8m)ほどの大きな穴が開いてたんだよ。それはもう、たくさんの爆撃があったんだから。そして働く場所を失って志津川の家にいる間に大東亜戦争は終わったんです。
今この仮設住宅にも泊浜(とまりはま)の人たちがいると思うけど、艦砲射撃で泊崎荘(とまりさきそう)のあたりに爆弾が落ちたりして、事故に遭った人もいたよ。でも、今回の津波のような広い範囲の被害でなく、2、3カ所のことで済んだけどね。
私が兵隊へ行ったのが、1942年の12月1日です。最初は仙台です。20歳になると兵隊に行くんです。
まず、徴兵検査があります。20歳になると、検査を受けて、甲種合格→第一乙種→第二乙種・・・って言ってね、それで召集されます。私はその頃から、耳がちょっと悪かったから、第一乙種でした。
私たちは、徴兵検査が終わるとすぐに連れて行かれました。陸軍です。仙台の歩兵第四連隊。その時は、大何連隊なんて言わなくて、「橘」(たちばな)と呼ばれていました。何人くらいの連隊か?とか、どこから船に乗ったとか?覚えていませんね。わかりっこないです。赤紙で連れて行かれる二等兵に、わかるわけがないです。
昔は、田舎でも「歓呼の声に送られて」って歌があるでしょう?神社で祈願祭をして、そうして送られました。仙台から出て、船に乗って中国へ渡りました。上陸してからは汽車で移動しました。終戦まで中国にいました。
終戦は、昭和20年の8月15日だね。その時私は、関東軍咸陽(かんとんぐんかんよう)部署にいました。
そこから今度は日本へ還されるために、ぶよう(武陽)ってところに渡りました。そこから、がくよう(岳陽)まで揚子江を下りました。
渡るのは夜でした。ちょうど私たちがね、一緒に渡っていた人がね、川へ落ちたんです。他所の部隊の人です。それで、私はその時ね、一緒に船で渡る人が揚子江に落ちた。私は、背嚢(はいのう)ってリュックを背負っていたんだけど、そいつだけを脱いでね、川へ飛び込んで、その人を助けたんです。助けた人の名前は別の部隊だからわからないです。一人を助け上げたら、もう一人流れてきたから、その時二人助けたんです。後の一人は同じ部隊の人でした。その人は「いながきまさみ」という陸軍将兵でした。陸軍少尉だから、私より年齢が上の人だと思います。泳ぐのが得意だったとかそういうんではなくて、偶然と奇跡が一致したわけだ!ま、偶然助けたってわけです。
それで、そうしたら、後から表彰されたんです。派遣軍総司令官陸軍大将中三尉勲一等功二級岡部直三郎(おかべなおざぶろう、陸軍大将。1887–1946)という方から表彰状をいただきました。部隊長から頂いた表彰状もあったんです。全部津波で流されてしまいました。
私たちは、中国へ行っていたために、3年半でも、軍人恩給なんてつかないんです。なぜか?というとね、中国は加算の対象にならないの。ソ連や南方へ行った人は加算がついたんだけどね。私たちはつかないんです。
戦争中、中国で貯金をしたんですが、その通帳の番号だけは覚えていてね、通帳はないんですよ、でも番号だけ「熊本貯金千丸六七六」っていう番号だけね、それで、全部ではないけれど、帰ってきてからお金を下ろしたこともあります。70年経っても覚えているんですね。
昭和19年のことです。学徒動員で、みんな日立製作所に行って、軍需物資を作っていたんですが、そこが米軍の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)にあって、工場が壊滅したので、そこにいられなくなったんです。
そのあと、昭和20年4月に現役として入隊して千葉に行ったんです。この部隊は、硫黄島に逆上陸する部隊、つまり硫黄島奪還作戦のための、死を覚悟したものでした。なので、「認識票」っていう小判型の金属片に番号を書いたものを持たされたんです。戦争に行って、たとえ爆死して体がなくなっても、その認識票で誰だかって確認できるようにです。だから、前線に行くのと同じだったんです。入隊後、最後の家族面談が許されたときに、親父が面会に来て、激戦地に行くので生還は難しい、と言うと「みんな死ぬんだな。捕虜にだけはなるなよ」と言って寂しげに帰っていったのを覚えています。
けれど、船もなにもなくなって、硫黄島に行くにもいけない状態になったので、作戦は中止になりました。それで本土防衛部隊に編成されたけれど、幹部候補生だったから当地活動をしていても、ほんとの兵隊の訓練ばかりやっていましたね。
結局、8月に終戦になって、9月の4日に帰ってきた。除隊です。
海の仕事は農作業の合間にするんです。8月今頃はちょうど、ワカメの開口も終わるころ。5月6月から8月にかけては天然ワカメの開口、ウニの開口で忙しくなってくるんですよ。
開口は、漁業組合が決めるんですよ。採るものの育ち方もみて、海が平らな日を選んでから、「あしたは天候がいいから、ワカメの開口」って、毎年のように連絡をするんです。そうすると、地元のみんな、朝早く、3時ごろから起き出して、船に乗ってワカメ刈りに行くんです。採る場所が家によって決まってるとかはありません。「あのへんはいいワカメいるんじゃないか」と狙いをつける場所は、その人によって違うんです。
私はおじいちゃんにつれて行ってもらってやったんですよ。上手でした。ワカメは草刈りガマでなくて、竹の先にカギをつけたものです。
海面下3メートルか、深いとこで5メートルぐらいのところでワカメを刈るんです。学校は開口になればお休みします。「明日は開口だから休みます」って届けて。学校の方でもそのことをわかってるからね。小学校6年生くらいから開口の日には手伝いに行きましたね。開口のためにしょっちゅう学校を休んでるじゃないかって?戦争当時はね、食料もなく、食べるのが大変だから(問題にならない)。開口の前の日に、明日はアワビの開口だからということで、名前を書いてくるんですよ。開口に行かない人は休めないですよ。開口に行く人だけです。行かない人は学校に行くんです。
私の子ども時代は、食糧難だから、食べ物がないとき。今食べている梨もない。畑へ行って大根を盗んで食う・・そんなのが遊びだった時代です。大根は生もなにも、なんでも生で食べたね。
サツマイモを食べてるのは良い方。大根の葉っぱだの、そこらにある草っぱ、葉っぱがあるものを採ってきて食べたり、今の人たちは食べれないだろうね。肉もないから、山にいるウサギを捕って食べたりね。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
戦争中は、男手が(出征で)無くなってしまい、田んぼは働き手がないから、学生さんが来てやってくれていたんです。今みたいに農機具がないから、田んぼを軟らかくするために、足で踏んだんです。牛や馬が入れる田んぼはそうやってしたんだけど、このころの田んぼはみんな膝の上までの深さがあるほど深かったんですよ。
戦争当時はまだ良くて、精米でも食べていけたんだけど、だんだんほら、(業績が)落ちて。私が小学校に入る頃から、だんだんダメになって、精米の仕事がなくなってきました。
それでも、海が近いから、精米やりながら、昆布は採ってたの。昆布でけっこう、稼いでいました。気仙沼の天然昆布って有名ですよ。天然だから、夏になって、流れてきたのを仲間と拾って、あと干して、丸めて、お盆に売るんです。くるくるっと丸めて、このぐらいの丸さにして、それをお盆のお供えに飾ります。それは気仙沼では有名なんです。その後は漁協に出して売る。昆布は乾燥させて、後で食べる。そのうち精米やめて、父親が海仕事に切り替えたんだね。
昆布の時期は、昔は、だいたい6月末頃から、8月のお盆までに採って、その後は、10キロだの10何キロだのと、くるくる丸めて、丸く大きくしていくんですが、実際は、9月頃まで拾ってたんだよ。うちの収入はほとんどそれでした。気仙沼で海苔や牡蠣をやってる人は、それでの収入もありました。海苔と牡蠣の養殖が有名なんですよ。
私が中学校終わってすぐくらいに、昆布から切り替えて、ワカメの養殖になりました。家で養殖ワカメを干していたのは、じっちゃん(育子さんの父)が病気で倒れるまでだから、6~7年になるかな。年寄り2人でしてました。
弟たちは、都会で仕事持ったから出ていって、家に残ったのはじっちゃんとばっちゃん(育子さんの母)と、あと面倒はじいちゃん(育子さんの夫)つまりうちのだんなが見ててくれてました。それでも、2人とも丈夫だったから、あまり手かけなくても、何とか元気で養殖してたんです。ワカメの「挟み方」(ワカメの種を切って、ロープに挟み込んでいく作業)の時なんかは行って手伝うけど、収穫は2人してしてました。ある年、この辺で最初にワカメを刈りに行ったんですよ。そうしたら気仙沼で初ものだって、テレビに映りました(笑)。
だからうちの父親は昆布とワカメで生涯終ったの。それで亡くなってしまったの。どんな父親? んー、子どもには厳しいかな。子供たちはみんな怒られるんです。女の子に甘いとか無かったね。
唐桑尋常小学校では、1クラス40人くらいいましたね。3年生までは男女一緒で、4年生からは裁縫が出たわけ。そのために男女に分かれて授業を受けました。男は裁縫の時間は勉強です。
お裁縫はそのころから好きでした。でも、みなさんがね、「学校さ、やばい(行きましょう)」って誘いに来ると、たまに父が、「今日は田の草取りだから、今日学校ダメだぞ」って。こう言われると、(はぁ、田んぼだの畑だの無い家に生まれたかった)と思ったの。田の草取りは除草機を使ってね、母と姉と私と父と4人でやって。自分では当たり前のことだ、と思い、不思議ではなかったですが、畑も、いっぱいあったからずいぶん働かされました。だからお裁縫が出来る日は、みんなとお話してね。楽しいでしたね。フフ。赤ちゃんの肌着とかそういうのを縫うんです。
中井小学校(分校)には6年生まで通って、天長節とか明治節とか行事の時だけは、唐桑(尋常小学校)に来ていました。高等1年からは唐桑でみんな一緒に勉強しました。
すん~ごく、きかない先生が居てねえ。若い男の先生で、誰かちょっとでも悪いことをするとね、雪の中、みんな足袋を脱がされて、小学校から海岸まで、裸足で走らせられたのね。思い出すね。厳しい先生だったけど、その先生から教わったことは頭に入ってるね。すんごい、おっかない先生だった。クラスの中で1人でもなんかやったもんなら、もう、長くて青い鞭で、バンバン、バンバン叩かれたもんだ。その先生はおっかなかったけど、やっぱり教わったことは覚えててね。不思議なもんですよね。
尋常小学校のあとは15歳で尋常高等小学校2年卒業でしょう。そのあと、青年学校っていうのに入ったんです。高校に行かない人たちだけの学校を青年学校ってね。高校にいく方は優秀な方がまず行ったわけですよね。
青年学校のころはね、たとえば隣では働き手のお父さんが兵隊にいっていない、だが畑はいっぱいある、そういうときはその青年学校の人たちが麦刈りでも、畑つくりでも手伝いに行ったの。増産隊って言ってね。青年学校にも男の生徒は居ないの。
石浜ってとこさね、2人暮らしで、お父さんが兵隊にいって、お母さんが1人で留守番で、畑がいっぱいあると、「今日15人、人手が欲しいんだって」と言われれば、15人で鍬持って行って、並んで、でっかいでっかい畑に入って、そして一斉に働いたもんだ。若い者、なんぼでも働けたのさ。うん。そしておやつをごちそうになるのが嬉しくてねえ(笑)。今ならダイエットとかって食べないで痩せる方法がやってるね、ああ、こんなでっかい「おはぎ」なんか出たもんなら、喜んでごちそうになって、働いて来た。そうやって仕事を割り振りして働きに行ったの。
希望して工場に働きに行った人もいました。私もね、周りでみんなお友だちが行くから、「私も行きたい」って言ったの、親に。そしたら親が言うには、「お前はとっても寝相が悪くて、他のあんちゃんたちに笑われるから出されねえ」って(笑)。やっぱりひとり女が1人だから出したくなかったんでしょうが、そんなこと言われたって(笑)。あんたがたは笑ってけらい(笑ってくださいよ)。アハハハ。
うちの両親が、かなり心配して、こう言ってたのを聞いたの。「男がみんな兵隊に行って戦死して、たったひとりの娘さ、夫を持たせられねえんでねえかな」って。それで私は、「はあ、早く嫁に行かせたいのかなあ」と思ったった。とにかく、戦死したんだもの、男っていう男はね。体の弱い人だけ残って、全部兵隊にとられて、兵隊に行く年齢よりちょっと若い人は軍需工場に取られたんです。男は誰もいないんだもの。だから、親としてはそう思ったんでねえかね。
青年学校は部落部落にあるわけね。畑をいっぱい持ってる家から30坪くらい借りてね、農業の先生をお呼びして、農業を教えられた。私たちは唐桑中学校の下のほうの畑をお借りしてそこにみんな集まったの。1週間に1回とか、そんな毎日でもないので、仕事って言えば家の仕事を主にさせられたのね。例えば春は草むしりとか、サツマイモ植えるとか、麦踏みとか、5月6月は農繁期で学校を休ませられるんだもの。農繁期って丘の方では田植え。こっちの方では麦刈りをするんです。
父はいわゆる半農半漁で、小漁(こりょう)でした。だいたい私の生まれた所はね、小漁が専門でね。私たちの孫の代くらいからかな、おっきな船にのったのは。そのころは船も機械ではなかったから、ちっちゃい手漕ぎ船で漁に出ていました。獲りがきの(獲ったばかりの)魚を食べて育ったのね。そのころは、小漁をするどこの家でも、大きい魚とか、大きいアワビはね、漁協に売りに出して、売れないようなちっちゃいのを家で食べたの。10人全員でご飯を食べる時も、自分の分の骨は「あんたはちっちゃいから」なんていって取ってはもらえないの。みんな同じように自分で食べるんです。そして私も一生懸命、もくもく食べたんじゃない?(笑) だから今でも骨取って食べる小魚が大好きなの。
お米は家では半年買わなくても良いくらい、自分の家の田んぼから収穫していました。自分の家で食べるための田んぼもあれば、畑もありました。そのころはみんなそんなでした。
兄は学校が終わる(卒業する)までは小漁をしてたんだが、あと、学校終わってからは遠洋漁業に出てね。マグロとか、カツオ船とか。家を離れているのは、昔はそんなに長くなくて、3カ月とかね。あんまり遠くに行く漁船には乗んないで、まず、普通に手伝ったりしてね。兄は家督を残して結婚したら家を出たので、1人抜け、2人抜けってだんだん家にいる人数は少なくなって行って。
2番目の兄は婿養子に行ってね、子どもが2人あったの。それがね、宮城県の主導する宮城丸(水産学校の教育用の船)に普通の船員として乗って行ってね、戦死したの。米軍の魚雷が当たって、「轟沈」でした。5分以内に沈めば「轟沈」っていうんだってね。昭和19(1944)年の話です。いま、自分が結婚して、婿養子に行った先の義姉が30代で未亡人になったが、かわいそうだったなと思ったね。それで、義姉のところに、着る物とかなんとか、いろんなものを送ったのを覚えてるね。
ただ、その頃は夫が死んでも、田があり、畑があり、自分の家で食べるくらいは働けるわけね。それから漁業に出て魚を獲ってきて売るとかね、食べることにはそれほど事欠かないし、ぜんぜん財産がなければ、いっぱいある家に手伝いに行くとか、そうして暮らしたんです。兄の子どもが、今では「おばさん1人だ」っていうわけでね、ホタテ養殖をやってるから、私のところにホタテを持って来てくれたり、いろんなものを持って、この急な坂を上がってきます。巡り巡ってねえ。
その頃のご飯はお米と麦を混ぜた麦ごはんでした。麦ごはん食べたいねえ。あれで育ったんだものねえ。
そして学校にもって行くお弁当のおかずってば、「今日は何入ってるかなあ」なんて、そんなこと思わないのさ。必ず、味噌。梅干し。そんな程度で卵なんて見たことも無かった。
学校に行く途中に、行政書士さんのお家があってね。そこの家ではね、卵を割った殻を盆栽の上に載せておくんです。って、横目で通って見たの。その頃は「ああ、この家で卵食べてるんだなあ」って思って通ったもんだ。嫁に来たら、この家ではニワトリ飼ったんだって。だからお爺さんが、「ああ、卵なんて見たこともなかった」って私が言うと、「はあ、卵なんて食べたこと無くてここ来たのか。卵なんて他人にあげるくらいあったんだ」って言われました。そんくらい、卵って貴重なものだった。
この辺りは戦争終わるあたりから、何にも食べ物なくてね、こんなに今太ってしまったがね、当時は細くて、おなか周りを日本手ぬぐいで縛れたもんですよ。
食べ物はつくしの里の方から小鯖の海岸まで倉庫があって、そこでお米の配給があったのさ。10人の家族はこのくらい、5人はこのくらいって、お米の通帳(米穀通帳)渡されてね、それを持ってきて、お金と交換です。そしてお米も、トウモロコシも、お砂糖も、何でもかんでも配給されて、食べ物はなくてなくて困ったの。
魚は獲れても、漁協の方で集荷してお金にしたわけ。配給のものを買うためにね。とにかく人が寄れば食べ物のお話だったのね。「家では昆布を拾ってきて、雨にさらして真っ白くして、乾かして臼でついて、こんまく(細かく)してご飯に混ぜて煮る」とか、「大根の葉っぱ食べろよ」、とか「サツマイモの茎を食べる」とか、「イタドリ(すかんぽとも呼ばれ、茎は酸味がある)を食べる」とか。とにかく、食べ物の話しかしなかったのね。そう、大変な時代を超えたの。
昔は、まずお肉なんて食べない。魚だけ。よそ様からメカ(メカジキ)をいただくと、「あ、今夜はライスカレーだ」って。メカでカレーやったの。どっかの船が港に入れば、必ず魚を頂くと。うちの船が入れば、よそ様へあげる。やったり取ったりしたもの。魚は全部自分でおろしましたよ。カツオとか、サンマ、イワシ、なんでもそういうのを加工しに働きに出てたから、だから魚は何でも捌ける。工場に男の方がいっぱいいるの。自分で獲ってきた魚をいっぱい捌くんです。みなさんお茶を入れている間に、「ここから包丁入れるの、こうやって」って、教えられるの。男の方に教えられたんです。
だから、最近になって、お刺身買うようになった時はね、「昔は魚なんて、刺身なんて買って食べたことなかったのになぁ」とね、そう思ったよね。店頭に並んでるお魚は、一味もふた味も味が下りてん(落ちてる)のね。どうしても。獲ってきて、すぐお店に並ぶわけでないから。そういう感じがあります。うんうん。
私が生まれたのは昭和7(1932)年3月16日。もう80歳です。私は、銀行に一番長く勤めていたのだけどもね、百姓から、酒屋から、商売から、いろいろやったんです。何でもやってきたから。何でも聞いてください(笑)。
生まれた家は南方(みなみかた。宮城県登米市東部の穀倉地帯)の百姓でした。今住んでいる佐沼から2キロメートルくらいの所です。南方の小学校に6年、佐沼(宮城県登米市、南方の西北に隣接する)で中学校を4年、高校を2年と、この近くの学校に通ったからね、このあたりのことは全部、わかるわけ。その間に戦争もありましたよ。その間、中学校ではほとんど勉強しないで、田の草取りだの、農家の仕事、つまり農作業をやってきたの。戦時中の学徒動員と同(おんな)じように、学校で勉強しないで、勤労奉仕をするんです。そういうのが中学校の1~2年ごろずっと続きました。中学校2年生の時に終戦を迎えました。
実家の農家は、お袋がやってたんです。この辺りはみんな農家だったんですよ。親父は私が生まれてすぐ死んでしまったので、お袋が働いたんです。
私は5人兄弟の末っ子なんです。一番上は軍隊に入り戦死しました。2番目は学校の先生でしたが、去年亡くなりました。あとの2人の兄は、百姓をしていましたね。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ