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小学校1年生の頃は、太平洋戦争が始まった昭和16(1941)年、そのころは鮮明に覚えてますよ。家の隣が小学校だから、ほんと、一歩出れば学校の脇だから遅刻しないし、弁当なんて持っていかないのよ、家に帰って食べてたんだよね。弁当の味っていうのは全然わかんないね(笑)。
終戦になったときは小学校5年生。戦争が終わると、写真屋なんて、贅沢商売。戦争までは、歌津の結婚式だの、いろんな行事で写真を撮ったりした人もいたけど、終戦になってみんな喰うに困る時代になって、もう写真撮る人もなく、食うに困って・・困るよね。商売が一気にバタっと行ったわけよ。うちの親父は明治29(1896)年生まれだったから、だんだん年をとっていたし、終戦と同時に写真屋を辞めてしまったの。
もう、それからは、飯も食えねぇような状態。もう写真屋もねぇしね。うちの親父なんか、行商と言って、歌津から干したワカメや、磯草ね、いろんなヒジキだとか、マツボだとか、フノリだとか、貝を剥いたものだの持っていって佐沼方面に馬車だので行って、米と交換してくるわけ。昭和24、5年頃はね、この辺もみんなそうやってたんですよ。その当時、田んぼが200ヘクタールほどあったかな。でも米もそんなに穫れねえんだ。一反150キロ位しかとれない。そしてそのころ、田んぼ持ってると供出ってのがあって、出さされたんですよ。配給制度のためにね。そういう状態で歌津の方々は大変苦しかったのね。
私は中学校を卒業して、高校にも入れない。うちらは80人ほどの同級生がいたんだが、高校に入ったのは3人か4人ぐらいですよ。相当、裕福な人でないと入られなかったんだね。私も食べ盛りで、家にいると食べるんですよね(笑)。ホントに食料難だもん、その頃は。それでも家族も私も飯を食わなきゃならないんで、口を減らすために、今の登米市迫町佐沼の大店に奉公に出されたんです。百貨店、雑貨店、もう何でも売ってるお店で、近辺の商店に商品を卸していたと思いますね。
戦争は日本が負けて終わったでしょ。「これは大変なことになってしまった」と思ったっけ。
みんなで泣いたりもしてたけど、それでも戦争が終わってみんなが故郷に帰って来ることが幸せだったねぇ。そして、歌津の方でも志津川の方でも演芸会が始まったの。私もあちこちの演芸会に行っては、少しでも演芸のまねごとをするのが楽しくて。
「日本よい国、東の空に」と歌いながら、道中囃子(どうちゅうばやし)といって、私が考えた踊りを志津川の青年たちに教えたこともあったよ。学校からずうっと松林が続いてて、その松林は今は津波で流されて一つもなくなってしまったけど、そこを練り歩くときのお囃子だよ。そして、佐沼の青年団の人たちが来ました。会長さんは都会に行って帰って来た人で素敵な方だった。
「何でもやる気になれば」「あらゆることをやらなければ」と思って一生懸命やったんだ。目が赤くなってもやるの。人様にお見せする限りは、下手なものをお見せすると恥ずかしいから、頑張らなければね。
13人家族で暮らしたこともあったからね。それも、1カ月、2カ月のことじゃないんだから。うちの父さんが海から魚を獲ってきて、米に換えて持ってきても、すぐなくなってくるんだ。家族が1人2人だったらいつまでも残ってる量でも、13人だとあっという間になくなるでしょ(笑)。
シラスを網でとって干して、大きな南京袋にいっぱい詰めて、自転車で商いに行ったなあ。本当にうちの父さんも苦労したから、私は実家を離れられなくなったの。
商いというものはありがたいものだよ。海のものがあれば、それが米にもなれば、菓子にもなれば、何かになる。
私は行商に出るのが好きで、いろいろ歩き回ったの。昔のことだから食料もない頃で、魚や海草を獲ったら市場に持っていって、その他は神社に祀ったり、行商に出て売ったり、お米に取り換えてもらったりしたんだ。
行商に出ると、近所のお寺の養蚕の神様に石を積む人たちが9人くらい来ていて、私が行けば魚もすぐ売れてなくなって、ありがたいことだった。タダではもらえないからってお米をくれたこともあった。魚を持って行って、お米を持って帰って、大変だったけれど、私たちも助かったもんだよ。
うちの父さんの昔から知り合いで、農家するときに馬を借りてきてね、馬追もしたよ。
馬というものは、人の何倍も働いているから、かわいそうでな。飼料なんか背負わせて行ったけども、それを降ろしてあげると食べさせたくなるのさ。そして、かわいそうだからって食べさせたら、今度は馬が私の根性見て、食べさせなきゃ動かなくなるの。私って本当にへんてこな人だけど、優しいことは優しいんだよ。(笑)
戦後の経済成長の頃、昭和34〜5年から、40年後半ですね。あの当時ですと、中学を卒業する子どもの40%ぐらいは家を離れて出ていきました。あとの40%くらいは進学し、20%は専門学校的なものへ行きました。地元には仕事が無くて、各家庭はあの頃は生活が苦しかったんですね。
それを見ている15~6歳の子どもたちが「このままでは家の人たちがかわいそうだから、俺が出てって、就職をして、働いてお金をとって、それを親に送ってやる」。そういう気持ちで40%の子どもたちは出てったんです。
そういう子どもたちは「金の卵」と呼ばれて、東北から上野に向かう蒸気機関車にいっぱいに乗せられていくんですよ。煙を吐きながら走る、夜行の汽車です。暑くなると窓開けますから、トンネルくぐると、顔見るとみんな煤だらけで、黒くなるんですよ。
私も同じ汽車に乗って子どものお世話をするのに付いて行きましたが、その時の就職列車の中は、いま思い出しても、子どもたちはよく生きて出て行ったなと思うほどでした。東北から夕方に出発して、夜明けに上野に到着するんですが、次々に駅に停まると何十人もそういう就職していく子どもたちが乗って満杯になっていくんですね。椅子は満杯で、すし詰めです。子どもたちは家から持たされた小さいボストンバッグを膝において、うたたねをしていました。
汽車が途中で何十分か停まるわけですよ。ここは駅かと思って見ると、駅じゃないんです。別の列車の通過待ちです。急行列車だのが行ってしまってから就職列車が通る。つまり暗い、駅でもないところで何十分か停まるんです。私もそうでしたけど、一睡もできないんですよね。
到着すると、汽車ん中までは仲間同士で「なあ、友だちで仲良くすっぺな」と、お話しながら来るんですよ。で、上野にでて、西郷さんのあの銅像まで行く間は、もう無言なんです。上野の西郷さんの銅像のまえに、県単位でみんな集められて、「あなたはどの会社」って分けられるんです。一緒に来た友だちは会社が違えばそこで別れるわけです。「じゃね、バイバイ」とか、そんなもんじゃないわけですよ。知らない土地に来たためか、かわいそうになってしまうような顔をしてるんです。
「誰それさん」って呼ばれて「はい」なんて出て行って、それきりで、別れてしまうだけなんですね。別れの言葉も簡単には言えないような気持ちだったろうと思うんです。そんな風に、上野に着いたとたんにもう、子どもたちはばらばらになるんです。誰がどこに行った、ということも考える余裕もないんです。「今から自分が行くのは、どこなのかな」「どういう会社に入るのかな」という不安があったんでないかなと思いますね。
その後、私は1週間くらいかけて、遠くの方に就職した子どもたちから順に会って、様子を見ながら声をかけてくるわけなんです。「がんばれよ、がんばれよ」「何か家にいい残すことは無かったか」って。「おばあちゃんがいるんだけどおばあちゃんが元気になるように言っててね」などの伝言を、帰ってきてから各家庭に行って「誰それさんはこういうふうにして、こういう会社に勤め、てこういう仕事をして、元気にやってるようですから」って報告をするんです。
その時の心情を新聞に投稿したものが残っています。「教え子に乾杯」っていう題で、集団就職をした子どもたちの境遇を書いたものです。中学校卒業して、すぐ集団就職をせざるを得なかった子どもたちがね、非常にけなげな気持ちを持って行ったんだ、ということを、今のほんとに贅沢な子どもたちに教えたいんですよ。今の子どもたちはなかなか理解できないですね。
ある1人の男の子は、アイロンを作る電気会社に行ったんですが、入社して間もなく、身体の調子が悪くなって会社で亡くなったんです。引率して行って送って帰ってきたころは元気だったんですよ。
私が入社後間もなく訪ねて行ったときに、とってもいい子どもでね、食堂で食べる時に出入り口にかかってる縄のれんを、脇のほうに引っ掛けてくれたんです。そうすると私は、縄のれんに邪魔されないで、行き帰りできたんです。そういう子どもがそういうことをやってね。あ、これはいい子どもだなあってね、思いました。会社の指導する人にもそのことを話して、「会社にいい力になる子どもだから、目をかけてください」って言ってきたんですが、間もなく亡くなったんですね。
その子どものお墓を見るとね、涙出るんですよねえ。家族のために、お金をもらって送るんだ、という気持ちで行った子どもなんだけども、それが果たせないまま死んでしまったっていうことで、だからかわいそうだなって思いますね。
集団就職した中に、今では兵庫県加古川市に生活をしている教え子がいるんですが、その子から手紙が来たんです。「家が貧しいから、私が中学校卒業したらすぐ静岡の方に行って、働きながら家に仕送りをする」と言って富士宮に行った女の子でした。その子は、集団就職のときに会社から評価されて、入所式の時に、何百人か、大勢の前で謝辞をやったんですよ。
しかも「私は高校や、大学にも入りたい」という希望があって、そういうルートがある会社を選んだんですね。そして短大まで出て、働きながら頑張ってやったんですね。いい旦那さんと一緒になりました。
今兵庫にいると、その子どもが手紙を書いてよこしたんですよ。「先生は、こういう方でしたよねえ。私が良い人間になったのは先生のおかげです」、というようなことを書いてくれた。手紙と一緒に、「先生これから寒くなるから風邪をひかないように」って、靴下を段ボールに入れて、これと一緒に贈ってくれたんです。
電話してみたら、私が元気だったって喜んで、電話の向こうで涙声は語ってました。彼女に津波で流された新聞記事「教え子に乾杯」のコピーを送ってあったので、その写しをもらうことができました。
その頃のご飯はお米と麦を混ぜた麦ごはんでした。麦ごはん食べたいねえ。あれで育ったんだものねえ。
そして学校にもって行くお弁当のおかずってば、「今日は何入ってるかなあ」なんて、そんなこと思わないのさ。必ず、味噌。梅干し。そんな程度で卵なんて見たことも無かった。
学校に行く途中に、行政書士さんのお家があってね。そこの家ではね、卵を割った殻を盆栽の上に載せておくんです。って、横目で通って見たの。その頃は「ああ、この家で卵食べてるんだなあ」って思って通ったもんだ。嫁に来たら、この家ではニワトリ飼ったんだって。だからお爺さんが、「ああ、卵なんて見たこともなかった」って私が言うと、「はあ、卵なんて食べたこと無くてここ来たのか。卵なんて他人にあげるくらいあったんだ」って言われました。そんくらい、卵って貴重なものだった。
この辺りは戦争終わるあたりから、何にも食べ物なくてね、こんなに今太ってしまったがね、当時は細くて、おなか周りを日本手ぬぐいで縛れたもんですよ。
食べ物はつくしの里の方から小鯖の海岸まで倉庫があって、そこでお米の配給があったのさ。10人の家族はこのくらい、5人はこのくらいって、お米の通帳(米穀通帳)渡されてね、それを持ってきて、お金と交換です。そしてお米も、トウモロコシも、お砂糖も、何でもかんでも配給されて、食べ物はなくてなくて困ったの。
魚は獲れても、漁協の方で集荷してお金にしたわけ。配給のものを買うためにね。とにかく人が寄れば食べ物のお話だったのね。「家では昆布を拾ってきて、雨にさらして真っ白くして、乾かして臼でついて、こんまく(細かく)してご飯に混ぜて煮る」とか、「大根の葉っぱ食べろよ」、とか「サツマイモの茎を食べる」とか、「イタドリ(すかんぽとも呼ばれ、茎は酸味がある)を食べる」とか。とにかく、食べ物の話しかしなかったのね。そう、大変な時代を超えたの。
昔は、まずお肉なんて食べない。魚だけ。よそ様からメカ(メカジキ)をいただくと、「あ、今夜はライスカレーだ」って。メカでカレーやったの。どっかの船が港に入れば、必ず魚を頂くと。うちの船が入れば、よそ様へあげる。やったり取ったりしたもの。魚は全部自分でおろしましたよ。カツオとか、サンマ、イワシ、なんでもそういうのを加工しに働きに出てたから、だから魚は何でも捌ける。工場に男の方がいっぱいいるの。自分で獲ってきた魚をいっぱい捌くんです。みなさんお茶を入れている間に、「ここから包丁入れるの、こうやって」って、教えられるの。男の方に教えられたんです。
だから、最近になって、お刺身買うようになった時はね、「昔は魚なんて、刺身なんて買って食べたことなかったのになぁ」とね、そう思ったよね。店頭に並んでるお魚は、一味もふた味も味が下りてん(落ちてる)のね。どうしても。獲ってきて、すぐお店に並ぶわけでないから。そういう感じがあります。うんうん。
終戦の日を迎えたのは、は中学2年の時、私は15歳でした。
当時の中学校は入るのは大変だったんですよ。競争率が4.6倍でしたからね。今なんて1倍あるかないかの競争率で騒いでいますけど、昔は4~5倍ぐらいが普通だったんです。1学年3クラス40人ずつ、合計130人くらいいたと思います。私は2年でしたが、兄のいた4~5年生は学徒動員で、授業しないで、全員、軍需工場に引っ張られていきました。「戦を支えねば駄目だ」という、軍隊主義だったんだね。みんな洗脳されて、オウムと同じですよ。昔の人たちは、「それこそ天皇陛下万歳」の万歳組です(笑)。
8月15日、私たちは生徒全員で長沼(ながぬま:登米市迫町)に行って勤労奉仕をしていました。山を開墾してたんですね。その近くの店で、玉音放送を聞かされましたが、何を意味するのかよくわかんなかったですね。「負けた」って言う人と「そんなことないでしょ」って言う人もいましたし(笑)。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
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