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終戦の日、祖父は私に向かって「いいか。これから俺のいう事をよく聞いて、忘れないように。日本は戦争に負けた。俺もいつ死ぬかわかんない。俺が書き残したものを、今度はお前に託すぞ」と言うのです。
祖父はこう続けました。
「これは慶長16(1611)年の慶長津波のことを書き残したものだ。お前が20歳になった年にかならずこれを町役場に提出するんだ」と。私が「20歳にならなければだめなのか」と聞くと、祖父は「20歳にならなければ認められない」と答えました。
それこそが祖父から私が託された約束だったのです。その言葉通り、私は何度も何度も見て、書いてあることは全部私の頭の中に入れてありました。
しかし、まもなくその祖父も亡くなってしまい、西條家の男手は自分1人となって、祖母と母親、自分の連れ合い、そして姉が残され、親父が生前「女手で生計を立てていくには、人を頼んだのでは自分たちの食べる分も無くなってしまうから、少しぐらい借金しても、どんなぼろの機械でもいいから畑を耕して、そして俺の帰りを待ってろ」、と言い残したとおりに、親父の残した養蚕業を守りました。
そんなわけで、生活に追われてとてもじゃないが、約束を果たせる状況ではなくなってしまったのです。そのまんま今回の大震災を迎えてしまいました。
慶長三陸地震津波の当時の被害について、私の祖父から伝承している地名とその謂れは次の通りです。なお、地名は、祖父が戸倉村役場に在職中に、青森営林署、地方の方々と立ち合いの上確認したものです。
大津波は水戸辺川を上って、流域各地に大きな被害をもたらした。その結果、もともと無名であったと思われる沢にその被害にちなんだ名前が付いています。
笹が群生しており波で多数の笹が押し寄せられていた出笹沢(でさささわ)、山の窪に穂がついたままの藁が積み上がっていた藁穂沢(わらぼざわ)、そして女の人が沢の奥地で亡くなっていたという女(おんな)の沢、そして鳥越沢(とりごえさわ)。
鳥越沢には伝説があります。高台移転の場所になる西戸(さいど)に繋がる沢ですが、村人たちが避難しながら、1羽の鳥が波の中から飛び立った。自分たちが命からがら逃げたのに、その鳥の助かった事を手を叩いてみんなで喜びつけた名前ということなんです。そして牛殺し沢。祖父にその名を聞いた時、「なんで爺(ズン)ちゃん、牛がそのころいたの」と尋ねると、当時の牛はその乳がタンパク源として欠かすことができず、農作業もさせたのだということでした。何十頭という牛が、戸倉地区にいたがこの牛殺し沢というところに、重なり合って死んでいたそうなんです。
その奥に吉三郎さんという名前の方が亡くなっていた、津波前は牡蠣の殻の処理場になっていた付近の吉三郎沢(きちさぶろうざわ)、それから上流に150メートル先の水戸辺川が2011年の東日本大震災の津波の最終到達点になります。そして遠の木沢(とおのきざわ)があり、津波はここにも達しました。遠の木沢の名前の由来は、木炭を入れた萱を背負った人がここから奥地を見たら色とりどりの雑木林があって心が癒される、ということからだそうです。最も津波の被害があった大害沢(たがいざわ)、舟が寄っていたという舟沢、家が寄っていた小屋の沢を経て、いよいよタタカイ沢が慶長三陸地震津波の最終到達点ということです。以上が私の継承した津波伝承になります。
今回の大津波でなぜ私が生き延びたか。それは孫に助けられたからなのです。
震災の直前、2人いるうちの小さい方の孫が「爺(ずん)ちゃん、温泉さ行って、1週間ゆっくりつかっておいで。お母さんと一緒に12日に迎えに行くから」と言ってくれ、私は鳴子中山ラドン温泉に行き、安閑としてお湯につかってたんです。ところが11日にあの大地震があり、温泉宿も行ったり来たりになったんです。10日の晩には58人の宿泊客があったんだけれども、もうみんなちりぢり、ばらばらに帰ってしまって、残ったのは私も含めて4人だけになりました。テレビで津波の様子を見たのですが、まさか家族が亡くなっているとは思わなかった。
当時戸倉の部落には98戸の家がありましたが、今回の津波で残ったのは高いところにあった1軒だけで、52人の方が亡くなったのです。一家で5人も亡くなった家もありました。うちでも、前日の10日、小さい(ちゃっこい)方の孫が岩手県一関市の昭和病院から、母親の顔が見たいからと戻って来ていたのですが、2人とも津波で流されてしまったのです。また、姉は同じ戸倉の西戸(さいど)というところに嫁いでいましたが、今回の津波で、姪と一緒に亡くなりました。そして祖父が書き残した記録は流失してしまったのです。
私も、迂闊だったなあと今さらながら後悔していますが、「ここまではどんなことしたって津波来ないよ」ということを孫に言っていたのです。「来たらば逃げろ」ということは言わなかったのです。これは私の一番の後悔です。
亡くなった孫たちのためにも、私はこの祖父から受け継いだ慶長津波の伝承をなんとしても町役場に届けなければ、死んでも死にきれない思いなのです。
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