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この辺は田舎だから、結婚式や葬儀もいろんな取り決めがあるんです。まさか急に親父がそんなことになると思っていないから、親父にもどうするかなんてあまり聞いてもいないし、年配の人にしたってきっちり覚えている人は少ないし。外野席は一杯いるけど、きっちりと葬儀を仕切れる人はいなかったんですよ。やり方がわからなくて、批判されました。その時自分で苦労したからそれ以降、従兄弟たちに恥をかかせないようにいろいろ教えておきました。
私のような3代目になると、かなり親戚が増えるから大変なんです。冠婚葬祭も3代分の付き合いに渡ってやるようになります。1代目の関係する人たちは、全国に出ているわけです。八王子にも親戚が3軒あるんですよ。普段は連絡をとらないけれど、そういう時の連絡は間違いなく来ます。全部、礼を欠かさず、冠婚葬祭の誘いには行きましたよ。
親父の病気が見つかってからの10年間は、女房もそうだったと思いますが、ものすごくハードでした。よく乗り切れたと思います。それもね、兄弟が多いから支えられたんだと思う。私の兄弟6人に親父の兄弟は10人いましたし、一人仙台空襲で昭和20(1945)年に亡くなっていますが、その他はみんな所帯を持ってるんです。2~3人の家族で、あの状況を乗り切れるかっていったら、無理だったと思います。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
菊を作り始めたのは平成元年(1989)年からです。私より6歳下の及川隆君(JAの元組合長。志津川農協に大学卒業後に就職、花の栽培研修で訪欧後、その成果は「JA南三陸」の主力商品「黄金郷」のブランド菊として開花した)に「菊儲かっから一緒に作んない?」って言われたのがきっかけです。彼は頭の回転も速く、きっちりと物事を考える人で、農協の組合長をやって、42歳の若さで亡くなるまで、私とは兄弟のように接していました。
本格的に菊一本にしたのは平成3~4(1991~2)年のことです。それまではトマトと掛け持ちで栽培していました。菊専用にしてからまだ15~6年しかたってないんです。ホウレンソウは一時やめたこともありますが、菊の単価が下がってきたので、また作るようになりました。
ビニールハウスは3か所あって、12百坪の広さがありました。平成13(2001)年に息子が短大を卒業して農家をやるって言って建てたハウスでした。
これが10年足らずで、あの津波によって、2千万の土地がパーですからね。家を流されてもいいですが、仕事場を失うというのは辛い。確かに生まれ育った家だから未練がないと言えばうそになるけど、建て替える気持ちを持っていたので、勿体なさは無い。しかし昭和47(1972)年からコツコツと投資してきた40年間のハウスの蓄積ってやっぱり大きいんですよ。試行錯誤してやってきたから。ここで本格的に野菜から菊に切り替えたのは私が最初だから、なおさらです。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
昭和52(1977)年ごろからホウレンソウは市場に出荷していました。当時夏場にホウレンソウを出荷する人はいなかったんです。ホウレンソウはもともと冬の作物ですから。作物には、長日性作物と短日性作物との2つがあって、長日性は日が長くなって花咲くもの、単日性は日が短くなって花芽が付くものです。ホウレンソウは典型的な長日性なので、夏、種をまいて17、18cmぐらいになった時に花芽を取り去って市場に持って行ってみたら、市場で受付のやり方を聞いている間にそれが売れてしまったんです。なんと(250g1束あたり)400円の高値で売れたんです。当時の400円ですよ。それは当時、「先取り」と言って欲しい人が先に持って行ってしまう方法でした。そんな時代もありました。
それから野菜研究会という組織を立ち上げて、最終的には100人以上の組織になりました。後に農協内にホウレンソウ部会を作って会長をやって、夏場のホウレンソウ出荷を定着させるよう努力してきたんです。
本格的に野菜を市場に出荷し始めたのは昭和55(1980)年、大冷害の年でした。米の収入はゼロでしたが、国からの補償金で何とかなりました。しかし、それをきっかけにもう田んぼは儲からない、ということで、ハウス栽培に切り替えたんです。息子も生まれた時だし、百姓を継ぐ気持ちもあったから、借金をして昭和56(1981)年に750坪の土地にビニールハウスを建てました。そこは道路よりも1m以上低い土地だったので180万円かけて埋め立てて、その上にハウスを建てたんです。その時女房には話さずにやったので、今でも「相談してくれなかった」って女房に言われますね。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
テレビは部落に2~3台という時代です。親戚の家にテレビを週に1回か2回見に行って、覚えているのは、藤田まこと、白木みのるの出ていた「てなもんや三度傘」、山城新伍の出ていた「白馬童子」とかでしたね。自分の家でテレビを買ったのは、昭和39(1964)年の東京オリンピックのあった年、小学校6年の時でした。1月の売り出しで買ったんです。
お袋は次の日の(野菜売りの)準備をやって時代劇を見ていたな。子どもたちも引きずられて一緒に見てました。
当時は「巨人、大鵬、卵焼き」といわれた時代で、野球は巨人、相撲は大鵬、おかずのいいのは卵焼きってね。
学校での遊びは小学校4年生ぐらいまでは相撲しかありませんでした。当時は柏鳳(はくほう)時代で大鵬(たいほう)、柏戸(かしわど)など自分の好きな人の名前を勝手に名乗ったんです。私は大関の北葉山。うっちゃりが得意な力士でね(笑)。幼馴染の佐藤仁町長は初代豊山だったんですよ。昔の話をすると、今でもその話が出てきますね。
学校の先生も「怪我すると危ないから」って砂場を作ってくれ、家から藁を持ってきて土俵を作って、そこで相撲を取りました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
米は作って売るためのものでした。いいお米は売って、家では、普段はふるいにかけられた後の屑の米を食べるんです。10人家族で米の量も半端でないわけさ。お正月とか、祝い事のときだけはいい米を食べました。麦は、(売る為のもので)少ししか作っていませんでした。
おかずは味噌汁と野菜の漬物、そして魚。魚は川も海もあるから、たくさん食べましたよ。お袋が野菜を売って、その帰りに何か買ってきたもんです。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
2番目の高校生の孫は、志津川で、いつもは地震になると学校は子どもを直ぐに帰すんだけど、あの時は学校が子どもを出さなかったから助かりました。
帰るつもりで駅へ行っていたら・・・。志津川駅も津波で流されたからね。
あの日は寒いからカーテンを体に巻いて寝たそうです。志津川からここまで歩いて帰ってきたの。地震の後3日目の朝から歩き始めて、山伝いに来て、後ろから来たトラックに途中まで乗せてもらって、前を見たら剣道の先生の車がいたから、今度は先生に声をかけて歌津まで送ってもらって、ようやく帰って来ました。大きな男の孫もその女の孫も、2晩帰って来なかったから、もうこれはダメだから、「行方不明」と書けって、避難所で責められたんです。本当にその時は辛かった。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
中瀬町の中心は志津川の駅のあたりなんです。中瀬、竹川原、廻館、塩入地番の4つで一つの中瀬町という行政区を作ってきました。住所と集落の名前は一致はしないんです。こういう例はこの辺りでも少ない。林、大久保、とか地番が部落の名前になっているのがほとんどです。中瀬町は含まれる範囲が広いんですね。私らが子どものころは30世帯ぐらいしかなく、廻館には5~6軒、それ含めて40世帯ぐらいしかなかったの。その内の8割は農家でした。流される前は197世帯ありました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
この地域は大きく分けて、南部、中部、北部とあったんです。歌津、志津川、小泉が中部、大谷から気仙沼まで北部。地域には昔から決まった青年団があったから、クラブもあったけどもそっちには入らないで、青年団に入りました。歌津町青年団です。青年団というのは、たくさんやる仕事があって、一生懸命やりました。
主に体育関係だね。毎年9月あたりに、青年団で仙台まで行って、体育大会をするんです。私はリレーに出ていたのですが、青年団に入る前、学校にいたときから1番走者でした。スタートは大変だからね。1番走者ばかりやらされました。
自分たちが練習していたグラウンドが狭かったの。校庭が1周200mしかなかったんです。だから、コーナーがすぐに回ってくる。だけど、仙台の競技場は1周400m。200mのコースばかりでやってきたから、どこでハネて(一生懸命やって)いいかわかんなくて、勝手が違って、呼吸(ペース配分)が分からなかったから、やっぱり負けてしまった。直線コースだけは一生懸命やっていたんですが先頭になった人は追い越せないんですね。
あとは、算盤(そろばん)をしたり。
私は若い人に算盤も教えました。免許は何級も持たねえけども、読み上げ算、掛け算、割り算、暗証でね2桁までやった。中央でそろばんの競技会があって、集まってみんなでやったんです。競技会に出ると、先生に「お前なぁ、そろばんが上手いから、上海(しゃんはい)銀行さ行け」って言われたこともある。だげっともお袋1人残して上海に行かれねぇから、行かないでしまったのさ。
3月11日の地震の日は、その前に3カ月ほど、血小板が足りなくて高熱がでたり震えがきたりする症状で、入院していました。その時から足が不自由になってしまったの。痛いから注射したりしてね。
地震が起きたのは退院してから1カ月も経たないあたりだったね。茶の間にいたところで地震が来た。家の瓦がガラガラって音立てて落ちてきて、たまげた(驚いた)でば。外に出られなくなった。
家は本格的な母屋づくりで、阿部井組という腕のいい大工に頼んで、44年前に建てた、良い材料で建てた家だったんです。普通、瓦は7〜9段で作るけっども、化粧瓦を12段で作ってたんです。赤瓦で、みんなが真似たんだ。柱には松やひのきなど自分の山の木も使っていて、あんまりたくさん材木を集めてたんで、材木屋と間違われたりしました。どこも手を入れる必要もなくて、しっかりとした造りの家だった。家の中には中廊下があり、どこの部屋も通らずに行き来ができました。ずっと綺麗なままで、伝統的なつくりの家をわざわざ見に来る人もいたんだね。そこを4年前に、トイレやお風呂などの水回りや襖などにお金をかけて、バリアフリーに直したばかりだったんです。
ばんつぁん(奥さま)は兄の家に手伝いに行っていて、帰って家を見たとき、潰れてしまったと思ったって。
津波の来る少し前から雪が降ってきました。ドーンという鳴り物が2回起こり、20分ぐらいして津波が来たんです。知り合いの若いお姉さん2人が足の悪い私を迎えに来て、家から高いよその畑まで連れて行ってくれた。
この津波で、石浜神楽の踊りでずっとお姫様(娘役)をしていた人は、隣のお爺さんだったの。ところが、今回の津波で流されて亡くなったの。お姫様っていうのはユルくねぇ(簡単じゃない)からね。ちゃんと稽古するからね。振袖を着て女役をやるんで、普段も股を開かず歩く人でした。
家は流されねえの。下まで波が来たけど、流れねえの。だけっど、お爺さんが海岸で店ッコやってたの。雑貨屋。津波の前の日には、新しい店ッコの「建前(タテメエ)(新築の際に行われる神道の祭祀、いわゆる「上棟式」のこと。詳しくは後述)」までしたが、津波に流されてしまった。
銀行では、だいたい、大卒は10年、高卒は14年で係長になります。昔は、次長・課長・係長の順に昇進です。高卒は34歳くらいで係長になり、3~4人くらいの部下がつきます。地域を一通り回って顔つなぎをします。今のように銀行がサバイバルゲームをする時代ではなかったから苦労はあまりありませんでした。いいこともわるいこともあまり起きない。その点は楽だったですね。
係長になっても外回りするんですよ。同じ預金でも、訪問された家にとっては、もらう名刺が平社員と役職とでは気分が違いますよ。だからね、支店長でも次長でもみんな外回りする。いいお客様、大きいお客様が入れば訪問するんです。これが我々の仕事です。都市銀行みたいに部屋で胡坐かいていたんじゃ誰も利用してくれません。これが大きい銀行と地方の小さい銀行の違いです。
昔の地方銀行は、支店長や次長でも便所掃除をしたくらい、小規模でした。小さい店舗だと行員が8~9人くらい。大きい店舗だと14~20人くらいでした。私は案外大きい店舗で、佐沼とか築館など経験しました。志津川も15人くらいでした。みんなで外回りをしないと回らないんです。内勤と外回りの仕事が半々くらいでした。
外回りはおもしろいけど失敗もあります。大きい失敗というのはよそにお客さんを取られるということですね。自分が開拓したお客さんが、他行に取られるのはしゃくだったな。競合は德陽銀行(三徳無尽、1990年普銀転換。徳陽シティ銀行を経て1997年経営破綻)というのがあって、それから信用金庫・信用組合が競合していましたね。我々地方銀行は町の中心しか歩きませんでした。ネームバリューが違いましたから。こういうのは、政治力なんですよ。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
私の昔からの趣味の一つに、釣りがあります。
海の近い志津川だから、ザッパ船を借りて、海で淡水魚の鮎釣りなどをしたものです。漁業権は要りません。
長沼のフナはしょっちゅう獲ったなぁ。長沼、伊豆沼のフナは骨が固いので有名で、昔はよく食べたものです。珍しいものではなく、用水路にいっぱいいたんです。フナはね、用水路の角の深くなった所にいっぱいいたんです。特に秋、フナが溜まります。堰き止めて、水を汲みだしてフナを出せばいいので、簡単なんですよ。2~3人隣の人たちと獲りに行って分けました。
獲ったフナは土臭い(※掘割の泥の中にもぐっている)から、真水に入れて2日くらいゴミ出しして、土臭ささを取んなくちゃならないんです。フナは味噌煮や、ふくさ汁にします。醤油はあまり使わないですね。串を刺すことを「弁慶に刺す」と言いますが、フナを串に刺してあぶって、味噌をつけて何回も囲炉裏で焼くんです。田楽ですね。そうすると燻製になって長持ちするんです。
また、冬のドジョウ堀りが楽しかったんですよ。冬の凍った田んぼの氷を剥がしてスコップで少しずつ掘ると、土の中にドジョウが刺さっている。泳いでるんではなく、刺さってるんだから。食べなくても獲るのが面白くてね。志津川の海の人はドジョウやフナは食べませんね。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ