文字サイズ |
昔は子供がお使いに行くのが普通でした。お店に入る時は、「もうし~」って言いながら入って行きます。もらうっていう意味と買うって意味もあったんでしょう。店の方でも心得ていて、何を買いに来たかっていうのは、もう店の方で知っているんです。子供がモジモジして行っても、分かってくれますし、親がお金を持たさないで使いに出しているのも分かっていたんです。例えばいつも買うお醤油や味噌を一升瓶に五合など、みんな、そこの家の家計も内情も知っているという感じで見計らってくれるのです。だからみんな、お店の人に持たされて帰ってくるという感じでした。
そのようにして帳面につけておいてもらって、盆などに手間どりした勘定が出てから、まとめて支払う、それが普通だったんですね。
お正月は神棚に、鯛などの形に切り抜いた「切り子」を飾りますね。そのほかにも、いろいろのお飾りを貼ります。鯛の形がついたとか。「星のだま」などのいろいろなお飾りを飾ります。それを作るのは、切子を専門にするような職人さんがいたんですね。しめ縄とかお飾りなどを売りに来ていました。
今でも、御幣束(おへいそく)を切る方が、この仮設住宅の中にいらっしゃいますよ。私も今年のお正月は小さいものを切ってもらいました。
お正月の料理を食べ終わると、父親はね親戚を「一礼」しに、出かけるわけですよ。母親はいろんなもの食べさせたり、やっぱりよその人が「一礼」で家に来るからそこに(挨拶に)出たり、みなさんにお神酒出したりで忙しい。一礼っていうのは、一番最後に来る人がお酒を飲むのね。いろんなところを年始の挨拶で回んなくちゃいけないから、お酒を飲まないで回って歩くんです。一礼で「おめでとうございます」って父親が立派にして出て行くとね、もうそれが天国だった。帰ってくるまで(笑)。
こういう「一礼」っていう風習は何年も前からなくなって、今はみんなでセンターに集まって、おめでとうございますをするようになりました。私たちの親戚は何軒か、やっぱりやったほうがいいっていうんで、この前まで「一礼」をやっていました。来年はおそらくやらないでしょうね・・・亡くなった方が多いし、(親戚の中にも)佐沼や入谷に行って、ここにいない人もいますしね。
お正月に口に入るごちそうは、みんなこの辺りでとれたものです。お雑煮を作って、あんこ餅を作って、クルミをつぶして。クルミは金槌で叩いて割るんです。それでお雑煮には、(お雑煮の具に欠かせない)「お引き菜」と言って、中身は大根が千切りになって、にんじん、牛蒡と、しいたけと、あとは昔はね、地こんにゃくって言う名の黒いこんにゃく、それを千切りにしたのを入れて団子に作ります。その上に、蛸の渦巻(22ページ参照)とか、お雑煮の上盛りをします。仙台だとハゼなど付ける(※焼きハゼで出汁を取る仙台雑煮)んだけど、このへんでは、蛸の渦巻とかアワビとか付けてたんですよね。さらに、この辺りは鮭が登ってきて捕れたからイクラ(ハラコ)、セリはこのへんの田んぼから冬でも採れたから、セリのせて、シイタケのせて、それから、紅白のかまぼこをのせて、すごく豪華でした。
そこにお餅が入るのね。お餅がいらないっていうと「コウ」だけになるのね。コウっていうのはどんな字を書くんだったかな。よく「コウだけでいいな、餅いらないな」ってよく子供たちだけで言ってましたね。
あんこ餅とクルミ餅も用意します。あんこ作りは、大忙しだったのね。あんこ通しっていう道具があって、小豆をつぶしてこしあんにするわけね。そして袋に入れて水にふやかしてあんこを作ります。クルミはつぶして、剥くのは子供の仕事。クルミ餅とあんこ餅とお雑煮として、それでお正月の食卓は整います。
そして、大根おろし。神様にお供えするのに塩を使ってはだめって言われました。それで酢で味をつけたんです。紅白のかまぼこをお皿置きにして、そしてお正月の朝に、父親が神様に必ず捧げて、子供がその後ろにぞろぞろついていって拝むんです。
ここらへんのお正月の風習は、伝統的なものがありましたね。
まず暮れになると、お家を綺麗にして、神棚を掃除して、糊を焚いて、真っ黒になった格子もきれいにします。夜になると親が障子紙を張るので、昼間のうちに子供たちで準備しておくのです。それから、「お恵比寿さん」など(七福神)人形を全部下ろしてきて、すすで黒くなったのを洗って綺麗にしてから年越しをします。親は、日中の仕事が終わってから準備を始めて、障子を張るのも夜中までかかったりしてましたね。障子を張り替えると、部屋の明るさがぜんぜん違って、こんなに汚れていたのかと驚きました。
うちの場合だと五升枡ってお米測る枡があったんですよね、それに少しばかりのお金を入れて、それを「今年はありがとうございました。来年もなんとか困らない暮らしができるように」って親が神棚にお供えするんです。
小学校のころは給食がなくて、お弁当を持っていったのですが、家は田んぼと畑と海があるでしょう。そういう志津川の生活ですから、親は大変だったと思うけれど、子供はあんまりひもじいとか、大変とかいうことはなかったですね。
ただあの、お弁当を温める暖飯器って知っていますか? 下に炭を置いて、段があって、そこでご飯を温めるんですね。そうすると、お漬物が匂っちゃって。一番下はあったまるわけね。そしたら2番目の人が今度は下に行って、交互に温まるようなっていて。アルミのお弁当だから、角が腐食するようなお弁当箱だったんです。
人のお弁当を見るなんて、あまりなかったのですが、おかずなんかないですから。梅干しはいい方で、まずご飯を入れて、味噌を入れてくる人が多かったですね。
その他はたくあんしかなくて、それをみんなご飯に入れてくるから、私たちクラス40人から50人くらいいましたので、匂いがみんなついちゃって。そんな学校生活でしたね。
相澤さんは、NHKの政治部の人で、3月25日から10日間密着取材ということでご一緒しました。この頃、仮設住宅について、県のほうは公共用地にしか建設しないという方針でした。3500世帯分の内、1080世帯分しか建たないということだったんです。
自分としては地元を離れたくないので民有地の活用を願っていたのですが、県に話しても取り付く島もない状況でした。その時に相澤さんに電話して状況を話したら、すぐに国交省の大臣(2011年3月当時は大畠章宏大臣)に「被災地の生の声はこうです」ということを話してくれて、国のほうから県に話があって、今の民有地を使えるようになったんです。
相澤さんがいなかったらどうなっていたか、と思います。後で町長から「あんたが突っ走るのだけが心配だった」と言われました。相澤さんは「私は何もしてない。ただ大臣に繋いだだけです」と言っていたけれど、相澤さんが動いてくれなければ、仮設の建設はもっと遅れ、こんなに早くは実現できなかったでしょう。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
父は専門の漁業をしていたわけではありませんが、漁業権は持っていたから、開口とか、ハモ釣りとかには行っていましたね。漁業権もいつのころからかわかりませんが、漁業協同組合を立ち上げて、農家の人たちを漁師さんのようにして、漁業権を与えたんです。漁業権がなければ、開口の日にアワビなんかを獲りに行けないですからね。たいていは、半農半漁ですね。海あり、山ありだから。
私たちはいろんな避難所の中で一番恵まれた避難所だったと思います。
RQの皆さんが朝と夕にやっている班長会議に必ず出てきてくれて、"相談する人もなく即断する"ということをずっとやっていた私にとっては、常に"聞き役になってアドバイスしてもらった"ということが、大きな支えになってきたんです。
皆さんがいなかったら、自分もうまくコミュニティの人々をまとめることができなかったのではないかなと思います。愚痴を聞いてもらって、自分の息子ほどの年齢の人たちに支えられて、乗り切れたんです。お茶っこや足湯で息抜きの場もできました。
100人以上の人が共同生活を送れば当然面白くないことがあるもんですが、息抜きの場があって、そういうことにも耐えていくことができました。ずっと以前から付き合いがあったように思えたし、今こうやってまとまって仮設住宅に来ることができたのは皆さんのおかげ。本当に苦しい中、助けられました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
地域のキーワード:RQ市民災害救援センター, お茶っこ, 中瀬町, 志津川, 足湯
戦争中は、男手が(出征で)無くなってしまい、田んぼは働き手がないから、学生さんが来てやってくれていたんです。今みたいに農機具がないから、田んぼを軟らかくするために、足で踏んだんです。牛や馬が入れる田んぼはそうやってしたんだけど、このころの田んぼはみんな膝の上までの深さがあるほど深かったんですよ。
昔は、男の人は高等小学校を卒業するか、青年学校8年まで修了するか、女の人は女学校を出ると先生になる資格がもらえました。女学校を出て先生にならないで家にいる人とか、青年学校を卒業した人達がみんな、夏休みになると、松原に建ってるあずま屋で勉強会をしてくれたんです。朝、朝早く起きて、松原そうじっていってみんなで松原を掃除して、そのあとにその人たちが夏休みの勉強をみてくれたんです。
震災の時は、自宅から25kmくらい離れた登米市中田町の卸で花の仕入れをしていました。私は農家をやりながら、花屋もやってるのでね。精算が終わって出ようとしたときに1回目の地震があったんです。2回目の地震がものすごく強かったのね。あれだけの地震があれば津波がくるという予感がしました。
車で避難し始めましたが、米谷(まいや)大橋まで来たときに通行止めに会い、三陸道も通行止め、そこから4~5km下流にある登米(とよま)大橋は幸い通れたので、戻るようにして米谷大橋まで来て、国道398号線を志津川に向かっていきましたが、今度は合同庁舎から300mから500mも行かないうちに交通規制がかかっていました。
ふと川のほうを見たら、そこは右カーブで、私の車がハイエースだったのでよく見えたのですが、瓦礫が流れていたのです。私の後ろに30台ぐらいの車がつながっていたから窓を開けながら「津波だから逃げろ」と叫びました。
本当はそこから200mぐらいを左折して、旭ヶ丘団地に上りたかったのですが、そっちから1台向かってくる車があって、私がその車をやり過ごして高台に上がろうとすれば、後ろの人たちが波に追いつかれる。だから、そこに入らないで、そこから1キロメートルぐらい上流に来て、山道を迂回して八幡川の上流に入って地元に帰ろうと考えたわけです。
けれども、頂上近くで1台の乗用車とすれ違ったの。30代ぐらいの女性がそこから、「波来てるから行っちゃダメ」って言う。自分としては、この辺りの地形はすべて承知していて、無茶はしないからそのまま行けると思ったけれども、次の津波が押し寄せてきていたので、そこでUターンして頂上あたりの土建屋さんの資材置き場に車を停め、山道を歩いて自分の地域に帰ってきたんです。その光景はきっちりと覚えていますね。認識はしているのですが、現実味が乏しい心持(こころもち)がしました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ