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私たちが小学5年生の時も、チリ地震津波(昭和35(1960)年5月24日)っていうのがあったんですよ。そのときも(津波の怖さが)わかりませんからね、見に行ったんですよ、近くですから。
図書館のところ、今なんにもなくなってるけど、昔はそこ裁判所だったのね、松原ってとこ。そのあとは、図書館になったんだけど、そこの裁判所のとこに防波堤っていうのがあって、そこんとこで見てたの(笑い)、チリのときはね。それでずっと沖の荒島のところまで、ずっと水が引いて、無くなったのを見てたんです。とにかくぜんぜん海の水がないんです。大人の人達もいっぱいいたんですね。不思議な感じでした。魚を獲りに行った人達もいました。水が、こう少しずつ来て津波が来るんですよね、それを、防波堤の上からだから、そんなに高くはないところから、ずっと見てたんですよ。津波が来るまでずうっと。(次に何が起こるかなんて子どもには)わからないからね。
大人の人が「逃げろーっ!!」て叫んでいて、いま仮設住宅の建ってる橋のところまで行けば、山のほうに逃げられたんですよ。私たちはみんなと一緒になってそこに逃げたのね。遠かったんです。そのとき、弟と、それこそ波に追いかけられながら逃げたのね。それでどこ行ったのかな・・山を越えてとにかく家まで帰って来たんです。家はチリ地震津波の時でも、水をかなり高く被ったんですね。だから家の人たちは私たちが帰ってこないから、津波で亡くなったと思ったらしいです。家に帰って玄関を入ると、津波に乗って来た魚が入ってたりしていました(笑)。家は大丈夫だったんです、水は乗りましたけどね。まだ小さかった妹は家にいて、2階に逃げて無事だったんでしょうね。
チリ地震津波は5月で、次の日に田植えする予定だったから、用意をしていたんだけど(だめになりました)ね。それでも、次の年は植えたのかな、ちょっとそれは記憶にないけど、今度のようには被害がひどくなかったですからね。
子どものころ食べた、お母さんの料理はなんでも美味しかったですね。一番好きなのは煮ものです。
小さい頃の食べ物って、大してどこでも変わらない、同じようなものじゃないでしょうか。豊かな生活ではないものね。魚なんかは海が近いから、ありましたね。
志津川の郷土料理ですか? そうねぇ、鱒淵だったら「はっと汁」、いわゆる「すいとん」を作ったけど、そう言われると、なにあるんだろ(笑)?
養父は遠洋漁業の船乗りでした。ずっとね、マグロ船に乗って、北洋とかに行ってましたね。若い時は、カレイやカニも獲ってたみたいですけど、私が覚えてるのはマグロですね。一度船ででると、3カ月から半年ぐらい帰ってこないんです。たくさん魚が獲れれば帰ってくるのは早いけど。そういう生活ですよね、船乗りはね。
津波のときは、自宅から車で5分くらいの場所で仕事をしていました。大工道具のほとんどは家にありましたが、持って逃げることができませんでした。
地震があってすぐに自宅に戻り、津波まで1時間くらいありましたから、部落の役をしていたこともあって、工場の倒れた材料の様子などを一回りして見に行って自宅に戻りました。「親父、そろそろ逃げっぺ。津波がくるかもしらん」と行って、軽トラックに親父を乗せて、丸ノコを積んで高台に逃げました。その時には、隣のおばちゃんとは「来ないべっちゃない。大丈夫だよねー」なんて話をしていたのです。
助かったからいいようなものですが、おばちゃんは波に追いかけられながら逃げることになりました。お袋は高野会館で踊りの発表会をやっていて、400人くらいの人と一緒に逃げて避難所で一晩過ごしました。私たちは大雄寺さんに避難していて、そこでは中瀬町の区長さんも一緒でした。歩くのが困難なお年寄りが30人ほどいて、その人たちを老人ホームにお世話するよう頼まれて一緒に連れて行きました。
気仙沼に姉夫婦がいますが、電話ももちろん通じませんので、「どうしようかなあ、歩いていこうかなあ」と思っていたらメールが一瞬入って、「あっ大丈夫だ」と思って安心しました。自分はいろいろ家族の状況を把握して安心しても、自分から連絡しないもんですから、後でみんなから「何で連絡しない」って怒られました。そういえば、こっちは大丈夫って言ってないなって後で気がつきました。
次の日の昼ごろ、避難する動きも少し落ちついてきて、自宅の近くまで行った時ですよ。初めてああっ、うちもないかなあって思ってね。それまで自分の家がどうなっているかなんて考えもしなかった。大きな建物があれだけ流されているんだから、ウチもあるわけ無いな、とそのとき気づいたんです。
自宅は親父が建てたものでしたが、建替えかリフォームを考えていたところでした。仕事関係の道具が流されたことについては、モノへの執着はありませんが、長年蓄積してきた自分なりの資料がなくなってしまったことがほんとうに残念です。
小学校から20歳位の時のアルバムだけは拾うことができました。皆に「髪の毛がある時代の写真見つかってよかったな」って言われました(笑)。仕事関係の写真はなかったけれど、幼稚園入園、小学校入学から20歳頃迄の写真が残っているのは、思い出があるだけに、嬉しいもんです。
登米と比較すると、登米にいる時は瓦葺きの家は少なかったんです。トタン葺きとかセメント葺き、コロニアルなどのスレート葺などの屋根でした。でも、ここはやはり海が近いから瓦ですね。昔そんなに良いトタンが無かったのか、すぐ錆びるってことで、基本的にすべて瓦だったから、重厚になってしまうのかな。瓦は地元メーカーのを使っています。昔は瓦屋も3~4軒ありましたが、今では1軒しかないですね。
木材、自分で山を持っている人がそこの木を切り出して家を建てるということもかつてはありましたが、今は却ってそのほうがお金がかかってしまうので、それもできません。一方、昭和50年代にはすでに安い外材が入ってきていましたが、今はそれも値段が上がってきて「安かろう」でもなくなってきましたね。今、「地元産の木を使いましょう」ってここでも一所懸命がんばっているんです。山をつくるというのも私たちの仕事ですね。
志津川には漁業で儲けて建てたいわゆる「御殿」というのは無いですよ。アワビの事業で成功されて建てたアワビ御殿というのはありますけれども、気仙沼・唐桑で聞くような「サンマ御殿」のようなものは聞かないですね。志津川のお客さんは、漁業や農家の人ではなく、勤め人、サラリーマンが多いです。
家の注文を受けるのに、大工同士の縄張りのようなものはあります。縁故関係であれば、どこの大工に注文するのもありですが、やはり基本は地元なんです。それぞれの地元には強い大工さんがいますから、ツテで広がっていき、それがエリアを形作ります。だから知らない人の仕事は来ません。もちろんおかしな仕事はできませんし、後のメンテナンスももちろん行かなきゃならない。ここでは、手抜きの仕事だけは絶対しない、出来ないんです。それは良いと思いますよ。
兄弟ではよく外で遊んだりしましたね。おままごととかしましたねぇ。昔の遊びですからね。このへんは夏になれば沢で泳いだり、魚を捕ったりしましたね。このあたりはウナギ多かったのよ。私のいとこが近所にいたんですけどね、小さい時ナマズも毎日捕ったって。そんな風で、自然が豊かなとこですね。どうやってナマズを捕ったかって? わからない!男の仕事ですよ(笑)。海の近くですし、アサリや貝などを捕りに行きましたけどね。ウニ、アワビもよく捕れましたねぇ。
小学校のころの遊びねぇ、縄跳びしたとか、かくれんぼしたとかでしょうか。みんな、暗くなるまで家の外で遊んだのがありますからね。初恋? エヘヘヘヘ。アハハハハ。(秘密!)
見習い修行から志津川に戻って以後、いろいろな大工の人たちと関わるようになりました。何年もしないうち、25~30歳くらいの頃だったと思いますが、宮大工の方と関わるようになりました。
上山八幡宮(かみのやまはちまんぐう)や大雄寺(だいおうじ)など、あれだけの地震があったのにビクともしなかったのですが、そこの建築に関わった先生に、一応何年か社寺建築の現場にいさせてもらって、手伝ったことがあります。応援ですね。興味はもちろんありましたからね。
社寺建築でも、普通の部屋を造る大工は重宝がられるんです。宮大工は彫刻とか斗組(とぐみ)とかを作業して、それが終わると中の造作は我々一般建築の大工で十分対応できるんです。
その流れで、私は神棚を作るのが好きなんですよ。宮大工の手伝いに行って神棚を見て、「こういうの、いいな」と思って、そのミニチュア版を造ってみたわけなんです。小さい、細かい細工に自信がありました。どこ行っても「神棚はやらせてくれ」って言う位好きだったんです。手伝いに行っていたところの棟梁に「造らせてほしい」と頼んだら「いいよ、やっても」と言われて造ったのが最初です。現場で10日位、座布団の上に座って作るんです。
神棚は神様の本体を納めるためのお部屋を造るんです。この辺のは巾が6尺(1800㎜)とか9尺(2700㎜)大きいんです。細い垂木をいっぱいかけたり、神社のように斗を小さく拵えたり、大好きな作業でした。家は1軒1軒間取りも違いますから、そのたびに図面も自分で書いて造っていました。
親父には弟子がいましたんで、一人前になった大工2人くらいに来て貰って家を一緒に建てるんですね。志津川には、「指物大工」と言って細かい仕事をする大工がいて、押入れ下に引き出しを造ったり、茶箪笥のような大きいものなどを造る人がいました。また、こっちでは、昔ながらの「隅々まで、木で全部収める」っていう仕事の仕方をしていました。
この辺のしきたりで普通は1年間の「お礼奉公」っていうのがあるのですが、登米は隣町ですから、志津川の実家でも早く帰ってきて仕事を手伝ってほしいという希望もあり、「何かあったらすぐお手伝いに来ますから」ということで、お礼奉公はせずに実家に戻りました。
大工の一家に生まれたので、親としては後を継いでほしいという気持ちはあったかもしれませんが、直接そういう教育はありませんでしたね。中学校を出て、建築関係の専門学校に行ったんです。古川の高等技術専門学校建築科というところです。3年間ありましたが、そこは1年でマスターしたもんで、勝手に飛び級しまして(笑)。1年通えば十分でしたね。
それでそこを辞めて、志津川の知り合いの大工さんに「登米に自分の弟子がいるから、その人に付いて修行したらどうか」と紹介され、登米の大工さんに「見習い」に入ったんです。「徒弟制度」って今でもありますが、まるっきり他人の家に弟子入りして4年間修行させてもらうんですよ。職人の世界では、一度は地元や親から離れて修行する、つまり、まずは他人様の家に住み込んで、そこでご飯を頂いて、技術を身につけるのが基本なんですよ。何の世界でも同じでしょうけれどね。
このあたりでは蛸が有名で、私が小さい頃よく作っていた「蛸の渦巻」。ハムみたいに作るんです。このあたりでもだれも知らないんですが。
10月に獲れた蛸が気候が良くて一番いいというんですが、それを頭に竹を入れて、12月いっぱい干し蛸にするんです。
籠を作る竹を使うと、軟らかくってしなるから、それを頭に入れて広げるんです。頭の部分がしぼまないように干さないといけません。あとで足を、その頭の中に全部入れるから、小さくなってしまうと入んなくなってしまうからです。家の父がその作業は得意だったんです。だから私は直伝ですね。
昔はいっぱい蛸が獲れたから、30匹くらい干す。そして、今度はそれを水で戻すんです。戻した蛸の頭に足を全部入れるんですね。それで蛸糸でぐるぐる巻きにして、ちょうどハムのような出来あがりにするんです。そうすると蛸がすっかり美味しく出来上がって、そのまま最高のおつまみになるんです。
蛸も大きくて足の太いのでないと美味しくないですからね。今は数も少ないし、値段も上がっていますからね。それでも私は知り合いがいるから蛸が手に入ったんですが、この津波で獲れなくなりましたね。
たぶんまた蛸がここに来ると思うんだけど、「根蛸」ていって、志津川でずうっとそだった蛸の方が美味しいんです。蛸の小さいのがここに入ってきて大きくなった「マダコ」でないと作れないですからね。海の方の崖がアワビの宝庫なんですよ。志津川の蛸は、そのアワビを食べてそこに住みついている蛸だから、よそから入ってきた蛸よりも身が張っていて断然美味しいんです。志津川の海は遠浅だけれど、山から海にかけて全部岩なんです。今は海藻もなくなっているけれど、海藻の中にアワビが住んでいましたからね。そんな様子も、もう子供のころの思い出になってしまいましたけどね。
相手は二つ年下でした。年中いないから(都合がいい)って、船に乗ってる人をすすめてくれて。マグロの遠洋漁業をしてる人で、6カ月帰ってこなかったから、非常に自分としては暮らしやすい人でした。給料だけは送ってくるしね(笑)。