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地震の時は、私は家にいました。ワカメの季節だったので作業をしていたんですが、年寄りだからということで若い人たちが「休みな!」と言ってくれたので、家でテレビを観ていたんです。海は私たちの家から100メートル位のところです。地震が起きて、女房が・・・と思っても、立っていられないんだから。そのうちに、放送なんかでも6メートルの津波が来るという予報だったから、それじゃあとにかく避難するのが第一と、うちは4人家族だからね、まず貴重品を持って、車で避難所へ行きました。ウチのほうでは避難所というのがあるんです(細浦生活センター志津川字細浦23-11該当地域:細浦、西田)。部落の集会所に使っていたところです。
で、避難してみたら、第一波が来たら、この避難所も危ないよというので、また高台へ避難したわけです。だから、助かった。避難所は流されました。避難所は海が見えないところだったから、波が正面から来るところは見ていません。2回目あたりが一番大きかったのかな。水かさが上がるのはわかりました。私の家は、後から避難した高台からは見えるところだったので、流されたことはわかりました。片付けるもなにも、何もないんです。すっかり流されてしまいました。うちの方の部落は、ちょうど半分流れました。スパっと切ったように80戸ばかりある部落で37戸が流れました。
私は銀鮭もやりましたが、主にはワカメです。最初の頃は乾燥のワカメが主でした。今は機械化が進んで作業が楽になりました私が始めた頃は、どうしても人手が必要な時は「結する(ゆいする)」と言って、近所の人同士で力を合わせて作業をしました。いつもというわけではありません。作業の内容によって必要な人数も違うし、部落で、お互いに農作業でも海の作業でも労力の交換をしながら、必要な時はお互いにそういうふうに「結」しながらやってきました。機械化されると、時間が早い。仕事は速いのが一番です。経費はかかるけれども、機械化した方がいいと思います。
養殖といえば、牡蠣の養殖で志津川は有名ですが、あれは大きな処理場が必要なので、私たち細浦ではできません。その地域、地域で、向き不向きがあるので、南三陸町だからとか、志津川だからと言って、皆が同じことをしているのではありません。
志津川というところは、日本で最初に銀鮭の養殖をやったところなんです。銀鮭養殖発祥の地です。その時に、一番最初に養殖に成功したのが、もう亡くなりましたが遠藤昭吾という方です。私たちも銀鮭の養殖はやりました。それに、私は62歳から18年間6期、漁業組合の理事を務めたので一切合切がわかります。80歳まで理事をやりました。銀鮭の養殖が始まったのは、昭和52年だと思います。
銀鮭が良い時は、漁協も黒字だったんです。最初は、1キログラムあたり千円台で取り引きされたんです。値段が良かったの。養殖をする人が少なかったから珍しかったんだね。北洋で獲れる銀鮭が志津川で獲れるんだもの。最初は稚魚も一定の価格でした。
銀鮭というのは、最初は山で、海で育てるんじゃないんです。100グラム前後になった時、10月頃持ってきて淡水で育ったものを海水に慣らします。大体3日くらいかかります。そうして、今度は海の生簀に入れて、餌を与えます。その頃は、餌も安かったんです。
皆が養殖をやるようになって、稚魚も高くなり、餌もバカにならない・・・、そのうち鮭の値段が下がってきて、割が合わなくなってきて、結局は事業として成り立たなくなってきた。成り立たないだけなら良いんだけど、大きな負債を抱える人が出てきたの。経営は個人だから、あくまでもね。結局は何千万円も負債を抱える人が出てきたの。施設にも、稚魚にも、餌にも、経費がかかるでしょう? それで、保険制度というのができたわけです。漁協ではなくて、もっと大きな保険会社が募集する水産関係の保険に入るようになったんです。
遠洋漁業といえば、私の舅は遠洋漁業で船頭をしていました。舅は、家内の父ですが、私の伯父なんです。私の父が家内の父の弟です。私たちは、いとこ結婚ですね。それで、この舅が、漁業者として佐藤栄作が総理大臣の時代に勲七等を頂いています。舅は、この辺で名前を知らない人がいないんだ。神奈川県の三崎に行っても名前が知れているくらいの漁の名人でした。
漁にかけては本当に名人で、漁業者としての叙勲では早いほうだと思います。その舅は、戦時中はカツオ船に油を載せて南方へ船団を組んで運んだと聞いています。昔はタンカーなんていうのがないから、そうやって、油を運んだそうです。漁船っていうのは、船長よりも船頭のほうが偉いんだよ。船を持っている船長が偉いと思うでしょう?漁船の場合は違うの。船頭というのが一番の権限者で、そういう親父でした。
私は遠洋漁業には行きませんでした。息子は、無線通信士ですから、船頭は舅だけですね。
私が兵隊へ行ったのが、1942年の12月1日です。最初は仙台です。20歳になると兵隊に行くんです。
まず、徴兵検査があります。20歳になると、検査を受けて、甲種合格→第一乙種→第二乙種・・・って言ってね、それで召集されます。私はその頃から、耳がちょっと悪かったから、第一乙種でした。
私たちは、徴兵検査が終わるとすぐに連れて行かれました。陸軍です。仙台の歩兵第四連隊。その時は、大何連隊なんて言わなくて、「橘」(たちばな)と呼ばれていました。何人くらいの連隊か?とか、どこから船に乗ったとか?覚えていませんね。わかりっこないです。赤紙で連れて行かれる二等兵に、わかるわけがないです。
昔は、田舎でも「歓呼の声に送られて」って歌があるでしょう?神社で祈願祭をして、そうして送られました。仙台から出て、船に乗って中国へ渡りました。上陸してからは汽車で移動しました。終戦まで中国にいました。
終戦は、昭和20年の8月15日だね。その時私は、関東軍咸陽(かんとんぐんかんよう)部署にいました。
そこから今度は日本へ還されるために、ぶよう(武陽)ってところに渡りました。そこから、がくよう(岳陽)まで揚子江を下りました。
渡るのは夜でした。ちょうど私たちがね、一緒に渡っていた人がね、川へ落ちたんです。他所の部隊の人です。それで、私はその時ね、一緒に船で渡る人が揚子江に落ちた。私は、背嚢(はいのう)ってリュックを背負っていたんだけど、そいつだけを脱いでね、川へ飛び込んで、その人を助けたんです。助けた人の名前は別の部隊だからわからないです。一人を助け上げたら、もう一人流れてきたから、その時二人助けたんです。後の一人は同じ部隊の人でした。その人は「いながきまさみ」という陸軍将兵でした。陸軍少尉だから、私より年齢が上の人だと思います。泳ぐのが得意だったとかそういうんではなくて、偶然と奇跡が一致したわけだ!ま、偶然助けたってわけです。
それで、そうしたら、後から表彰されたんです。派遣軍総司令官陸軍大将中三尉勲一等功二級岡部直三郎(おかべなおざぶろう、陸軍大将。1887–1946)という方から表彰状をいただきました。部隊長から頂いた表彰状もあったんです。全部津波で流されてしまいました。
私たちは、中国へ行っていたために、3年半でも、軍人恩給なんてつかないんです。なぜか?というとね、中国は加算の対象にならないの。ソ連や南方へ行った人は加算がついたんだけどね。私たちはつかないんです。
戦争中、中国で貯金をしたんですが、その通帳の番号だけは覚えていてね、通帳はないんですよ、でも番号だけ「熊本貯金千丸六七六」っていう番号だけね、それで、全部ではないけれど、帰ってきてからお金を下ろしたこともあります。70年経っても覚えているんですね。
漁業でもね、機械でなかったから、「櫓で漕ぐ」って言うでしょ? それだったんだから。沿岸漁業ではこの辺では戦後まで手漕ぎでした。それでもなんとか生計を立てていました。生活のために売るのは魚やワカメでしたね。開口の日には、私もウニやアワビも獲りました。ただ、何を主に獲るかというのは家によって違います。規模も条件も違うから一概には言えません。私は戦争に行っていますから、終戦後帰ってきてからは、ワカメとかホヤとかの養殖を主にやってきました。
私の親は、遠洋漁業に雇われて行ったこともあります。遠洋漁業に出る人というのは、船主があって、雇われて行くんです。部落の人が皆行くというわけではありませんし、年中ではなくて漁の時だけ行きます。昔は、そんなに長い航海というのはなくて、戦後船が大きくなってから外国へ行くようになって、インド洋だの何だのってなったんです。
農業は、田んぼといっても、この辺はご覧のように傾斜地の山間地だから、「棚田」なんてあるけれど、ああいう大規模な棚田なんていうのは、ここでは無理です。田んぼをやるには、水がいるでしょう? だから、沢ざわ、水のあるところに田んぼを作った。水田を作れそうなところを耕したというわけです。この辺は、小規模なんです。自分で食べるくらいしかできないんです。耕地が少ないです。これは一般論ではなく、私の家の話ですよ。
この辺は本当に零細農家だから、100アールなんて耕地は稀です。今考えたら、よく生きていたというようなもんです。収穫量が少ないんだもの。田んぼは、水を引くでしょう? 沢にしか水がないんだから。灌漑用水なんて、昔は機械で水を汲み上げることができなかったから、水のある周りだけで田んぼをやっていたんです。米を売るぐらい採れる人は何人もいなかったんです。食って終わりです。畑には麦を作りました。米が少ないから麦も食べるんだ。麦ごはんにして食べたから、糖尿病の人が少なかったんです。今は糖尿病の人が多いよね(笑)。
ところが、今は米も安くなり、そうして肥料なんか、色々なものが高くなったから採算が合わなくなって、みな放棄してしまいましたね。今はね、田んぼも畑もほとんどね、耕作しない人が多いです。ウチももうやっていません。沢だから、山が伸びてくると日陰になってしまうから、木が伸びると何もできない。そういう条件の土地ですから。農業は10年くらい前まではやっていました。
灰干しワカメは、養殖もしくは天然の新鮮なワカメに、シダやススキ、わらなどの草木灰をまぶしたのち天日干しし、灰がついたまま製品とする海藻干製品です。
素干しワカメに比べ、鮮やかな緑色、歯ごたえの良さ、ワカメ特有の香りを、常温で1年以上保つことができるのが特徴です。
私の生家は、半農半漁です。兼業です。そして、自営業だね。田んぼも畑も魚もやるってことです。ワカメはここ何十年です。昔、ワカメは養殖ではなかったです。天然のものだから。皆さんは、おそらく養殖のワカメしか食べたことがないと思います。昔のワカメは、天然のものは硬かったんです。そいつが、技術が進歩してね、昔はワカメといえば、生で塩蔵したのが始まりです。
最初は、生のワカメを塩蔵にしたんです。そいつが色々進化して、ボイルして、茹でてからね、テレビで見たことあるでしょ?そのようになってきたんです。乾燥わかめといえば、昔も乾燥もやりました。その時は、灰をまぶして乾燥しました。灰で乾燥させると色が良かったんです。今は、天然物は全然ないです。養殖物を食べたら、天然物は硬くてね、今は誰も食わねぇの。
震災の時は、私はスーパーで買い物をしていたんです。車で買い物をしに来て、最初1軒のスーパーに行って欲しいものが売ってなかったから、違うスーパー、サンポートっていうとこに行って、そこで地震にあったんです。カゴを持ってレジに並んでいたとき、地震になったんですね。それでもすごい地震でしたので、怖くて動けなかったです。レジ台のところにいって、こうやってずっと掴まってたの(笑)。掴まってたのは私だけじゃなく、何人も一緒でした。上から何か落ちてくるんじゃないかという心配もあったけど、とにかくその場から動けなかったんです。いくらか揺れが収まって、外に出てすぐに大津波警報がでたっていう状態で、すぐ車で家まで戻りました。信号は止まってしまったしね、車の渋滞があったし、大変でした。
今回の津波では、ボランティアで知り合った方やそのご家族がたくさん亡くなりました。地震が起きた時は私は「高野会館」というところにいました。
午前中からお昼までいて、「保健センター」というところに移動したんですね。ボランティアの楽しみをしてたもんだから、仲間と一緒に認知症の研修会を受けに行ったのです。そこで地震にあいました。
高野会館にいる方には、「保健センターに行くよ」と言い置いて行ったのですが、聞いていない方もいて、あとで私がいないと騒ぎになってしまいました。
主人は父親と同じ、船乗りでした。獲ってたものも、おんなじです。マグロとサンマ、サケ、マス。サケ、マスは儲かった人は儲かったんだろうねぇ。一度出てって長い時で(帰ってくるまで)6カ月くらいでしたかね。家に居ても何日でしたね。それが普通の生活でしたから。帰って一緒にいると喧嘩するから(笑)。デートなんか、なかなかそれはできません。旅行もできない。