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歌津と志津川との合併は対等合併で進めようということで、合併協議会の会長に志津川の町長、副会長は私という体制で進めました。
平成17(2005)年10月1日、歌津と志津川は正式に合併して南三陸町が誕生し、私は、その前の月、9月21日に平成の森で記者会見を行いました。歌津町の最後の大きな行事となった老人クラブの大会も無事終わり、町の行事がすべて終わったのを見計らって行ったのです。そこで私は、「南三陸町町長選挙には出馬しません」、そして「町長選に誰が出馬しても、応援は一切いたしません」と宣言をしました。そして、「新しい南三陸町町長には、ひとつお願いがあります。海や山を活かした、第一次産業を中心とした町づくりをしていただきたい」と申し上げたんです。歌津も志津川も海で生きる町だからです。
町長を辞任した10月1日の次の日から、次の町長が決まる11月4日まで、私は職務代行を務め、職場を去る最後の日、11日に志津川の役場に職員全員を集めてお別れの挨拶を行いました。「私は今日で南三陸町役場を去りますが、皆さんにお願いがあります。南三陸町は職員の皆さんがつくる町ではなく、住民の皆さんがつくる町です。だから職員の皆さんが現場に出て町民の声を聞きながら、町民がどのような町をつくりたいのか聞きながら、新しい町をつくってください」と最後のお願いをし、完全に行政から手を引いたわけです。
昭和33年に高等学校を卒業して、仙台の大学病院へ臨床検査の勉強へ行きました。その頃はまだ専門学校とかではなくて、大学の研究室で、助手のようにして勉強しました。2年間です。18歳から20歳まで研修して、昭和35年志津川病院に就職しました。その年がチリ地震の年です。国家試験を受けて、資格を取って、帰って来たらチリ地震津波(地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し宮城県志津川町(現南三陸町)では41名が亡くなった)にあったという感じです。
津波が来た時は、朝の5時頃だったので、まだ出勤前で伊里前の自宅にいました。自宅には被害はありませんでした。
親父が「病院が心配だから行ってみろ」と言うので、自転車で志津川へ向かいました。途中、橋が全部落ちてしまっていたので、そこは自転車を担いで歩いて川を渡りました。志津川に入るのに、まず裏山から高校へ行き、近くの同級生に頼んで自転車を置かせてもらいました。高校は高台にあるので、チリ地震津波の時は大丈夫だったんです。
それから病院へ向かいました。ところが、病院の近くまでたどり着いても病院へ渡れない・・。当時病院の周辺には製材所が4つあって、そこの材木が流れていたので、その材木の上をポンポンと越えて、なんとか病院の2階へ入りました。
志津川病院は、今は5階建てですが、当時は2階建ての木造の病院でした。病院自体は流されませんでした。水が残ってハゼとかカレイとかピシャピシャしていたのを覚えています。
前の日には、大小あわせて手術が7件あって、その中で、晩に手術した「えんどうさん」というお婆さんをおんぶして逃げました。屋根の上、潰れた屋根の上を渡って行くんだけれど、途中また波が来て、南三陸町の役場の手前にあった旅館の3階に駆け込んで、波をやり過ごして、そうやって中学までお婆さんをおんぶして行きました。
私も若かったんですね。あの津波の時は、幸いにして患者さんも職員も1人も亡くならずにすみました。今回のような仮設住宅というのはなくて、志津川中学校の体育館が避難所になりました。波が引いたら、みんな自分の土地に戻って家を建てました。
あのチリ津波の教訓を、もう少し真剣に受け止めていたら・・と思います。岩手県の田老町(たろうちょう)というところを知っていますか? あそこも、古い時代(明治29年三陸津波、昭和8年三陸津波)から、津波で大きな被害を受けるというのを繰り返していた場所で、それを教訓に「波返し」というのを造りました。
それで「あそこはもう完璧だ」という評判で、私たちも視察に行きました。それを基盤にして志津川や伊里前も造ったんです。基盤があって、それを元にそれぞれ対策はしていたんだけれど、今回の津波では何も役に立たなかったということです。千年に一度の津波というものの凄さです。
私たちは、三陸沖地震とチリ地震津波と、今度の大震災と、3回も経験しました。しかも、戦争で、いっぱい苦労して育ってね。生きているうちにそういう経験はしたくなかったねぇ(笑)。もっと良いことを経験するならいいけどもさ。
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