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3月11日2時46分、あのときから、津波のことは、ずっと脳裏に刻まれてるんですよ。
私の家はちょっと高いところにあったんで、「津波が来たって家までは来ないから大丈夫だ」ってことで、安心してたんですよ。
地震が起きて、妻は車で外出して家に戻ってきましたが、その途中、ゴオーっと言う音や、ビシビシビシっていう雑音が聞こえてきたんだそうです。それで「これはただごとじゃねえ」ってことで、私たちがサンダル履いて外へ出てみたらですね、すぐとなり50mくらいの距離にある公民館や民家の屋根の方が盛り上がって来たんですよ。津波が来ていたんだね。
「あれ、津波だ、こりゃ大変だ」すぐそこまで来てるってことで、座布団1枚頭に被って、着のみ着のまま、そこの崖を上がっていったんですよ。ちょうど雪が降ってまして、足元が滑るんですよ。ベロベロ、ベロベロ。妻が先に上の方まで逃げて行ったんですが、私はサンダルがずるずるずるずる滑って、しまいに無くなってしまって、探そうとしているところに水が来たんです。
「ややや、こりゃ大変だ」ってことで妻が、上の方から「掴まれ」と手を伸ばしてくれて、私掴まったんですよ。瀬戸際で力が出たんですね。上に上がったところに水がわんわん、わんわん来た。命拾いしたんです。もしあの時一緒にふたりでズルズル滑っていたら、2人とも津波にのまれてさよならだったなって、笑い話にしてるんです。
その後、最初はここの「はまなす」っていうところに1カ月ぐらい避難しました。それからここは事業所で公的な建物ではないということで、あと、ここから車で15分くらいの距離の岩手県津谷川の、閉校した学校の建物に集団で移りました。避難した時には、電話もなにも、通信手段がなく、自分の携帯も津波で流してしまっていました。
また、小泉八幡神社や、私自身の歴史についての記録が自宅にあったのですが、着のみ着のままで逃げたものですから、流されてしまって無いんです。そのことがいつも頭にあるんです。多賀城の資料館にいくらか神社の資料があるんではないかと思っているんですが・・。流された資料は誰が書いたかわかりませんが、漢文で、小泉八幡神社の神職を務める山内家と言うのは、明治5~6年より前は藤原姓を名乗っていた、それで明治何年かに山内姓を名乗ったって、と書かれていたんです。私もそれを見つけて何枚もコピーはしてたんです。それをそっくり一緒にしてたもんですから、全部流してしまいました。
震災の日は、長女は仙台におりましたけども、次女の方が気仙沼の、南郷って、一番水が来る場所に家があって、そこにいる孫は当時小学校の6年生だったんです。小学校の校長が偉かったんですね。子どもは全部校舎に入れろと指示を出して、校庭を出てった小さい学年の子どもも全部校舎の中に入れて、3階に上がらせたんですね。学校は3階建てて、その上は屋上でした。
その近くが、すぐ気仙沼湾。火出た、その近くなんですよ。子どもたちは暗くはなるし、火は出てくるし、真っ暗になるし、泣き喚いたんでしょうね。次女は、娘が小学校にいるってわかってるわけです。自分は高台の高校にいて、娘は狭くて、低い危険な場所にいるので、連れていきたい、呼びに行きたいと思っても、津波が来てるから行けないんです。夕方から朝まで泣きどおしだったそうです。
娘の方も、母親のいる場所はわかっているけれど、行きたくっても行けないんだね。次の日の朝は水が引けていたので、自衛隊が来て、孫は自衛隊におんぶしてもらって母親のいる高校に連れて行ってもらい、再会できたんです。
小泉から見える海抜512メートルの田束山(たつがねさん)という山は、藤原氏の住んだ平泉の衣川、源義経の家来の弁慶が立ち往生した、あの衣川ですけど、その向かいにある山と非常に似ている山だそうですね。それで、藤原氏が伽藍(注:僧侶が集まり修行する清浄な場所。転じて寺院または寺院の主要建物群)を作っていろんなものをお祀りして拝む場所にしたんですね。その当時は40伽藍など、いろいろな建物があって盛んになったそうです。
田束山には3つの大きなお寺があるんですよ。(羽黒山)清水寺、(田束山)寂光寺(じゃっこうじ)、(幌羽山)金峰寺(きんぽうじ)とね。藤原家が滅亡した時に、ここも廃れて、その3つの大きなお寺が持っていた観音像を敵に取られないように、家宝と一緒に持って出て、ひとつは入谷、南三陸町の方に、もう一つは清水浜(しずはま)のほうへ、下って行ったんですね。
そのうちの一体と言われるものが山内家にあったんです。津波で流されましたが。私が小さい頃、よく兄貴なんかとイタズラしたんですが、重いんですよね。こんな小さくてしたの方が空洞なんですけどね、すごく重いんですよね。「これ金でねえか、切ってみるか?」なんてね。
病気で死んだ2番目の兄貴が、裏にして台のほうからちょっと削って見てたのを覚えています。それが何十年経っても錆びないで、ピカピカ光ってるんですよ。いろんな古文書を見てみたら、その頃、金鉱があって、金が沢山出たんですね。当時の金は精錬の技術が低く、粗金(あらがね)と言って、不純物がはいっていて、それであの像を作ったらしい。よく見ても表面はピカピカになってないんです。
田束山は何回も火災にあったことがあり、そのときの煤(すす)で黒くなっているそうです。そこを兄貴たちが切ったらそこだけまだピカピカしていました。大事にして神棚に置いていたんですけど、そういうものまで津波で流されました。
田束山には時の権力者が平泉と同じように金を運び込んだらしいんです。そして、金粉で書いた経文を、鉄で作った筒の中に納めて、敵が来ても持って行かれないように、土の中に埋めてしまったという言い伝えがありました。それが経塚です。
昭和何年か、気仙沼市の教育委員会が、東北歴史資料館の方をお呼びして、本当に経文があるか、ほっくりかえしてみようということになったんです。経塚を一つ掘ってみたんですよ。そしたら鉄の筒は錆で、ふたを外したら中に水が入っていました。経文を出してみたら、金で書かれた経文の文字がいくらか読めるものが出てきました。これは貴重なものだというので、東北歴史資料館に陳列されるようになりました。
山内家由来のお墓は大きく2つあるんですよ。ひとつは、古いほうで、藤原家のお墓。これは小泉中学校に行く途中にあるんです。山内家の先祖は、藤原姓を名乗って、田束山のお寺の学問の親分格、「学頭」をやっていたといいます。もうひとつはもっと高い山のところ、そっちは山内家なんです。
おそらく藤原から山内に姓を変えたのは、石に彫ってあるのをみると「山内盛」ってあるんです。彫が浅いので、よく見えないんですが。それが、観音像を抱いて山の下に降りてきて、寺子屋のように地域の方々に学問を教えてたんだということです。どんな人なのかもわかりませんが。
私の祖先の墓はあるんですが、位牌などは津波で全部流されました。あまり大きなものだと、何代も昔のものは置いておけない。ですから、薄い板をですね、一定の大きさに切って、法名と言うか、何年何月だれそれだれ、どこで亡くなったということを書いたんですね。妻が津波のあとに探して何枚か見つけてきたんですが、何枚もありません。
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