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今度の津波のときも、昭和8(1933)年のとき助かったように、柳沢の奥のほうに逃げて行けばいいと思って、手押し車持って行ったのよ。それで足も冷たいし、中に入り込んだの。
その時孫が、金曜日で、遊びさ行ってきたばかりでね、そんで地震があったから、今までの地震と違うと、地震にたまげて、訳分かんなくなって(動揺して)しまったのよ。
それで、「早く、車さ乗れ、車さ乗れ」って。そうして今語るわけさ。車こうしてあるから。あれさえあれば、どこさ行ってもいい。たたんでね、それさ積もうと思ったの。そうしたら孫が怒ってね。ラジオできょうの津波のことを詳しく言ってるんでないか、と思ったのね。そして、実家さ行ったのさ。
そこまで行けば大丈夫だと私も思ってだんけど、そこも、みんな逃げてしまって、いなくなって、うちのおばちゃん一人なの。おばちゃんも車に乗るなり、「早く! 早く行け!」って言うんだっちゃ。だから孫の言う事聞いて車に乗って、田束山(たつがねさん)ていう小泉の一番高い山の中盤の、遊び場があって、そして、トイレがあるとこ行くっていうのさ。そこなら安心だからって。そこへ連れていかれたの。だから津波は見なかったわけ。
私たちと孫はね。「とにかく早く乗れ」ってことで、そこへは、一番先に着いたんだよ。あとからどんどん他の車が来て、夕方には駐車場がいっぱいになったの。それで、そのあとは、高いところにあるから、小泉中学校の体育館に行ってきた。雪っこも降ってきた。
二十一浜の人の話、聞いたんだけど、そこは真ん中に川があって、両側は山で、川の両側に家建ってんのよ。だから逃げるっつたら、山さ上がって行くのね。山さ上がって津波の来るのを見てたんだって。見てた人、一杯いたんだって。その人たちから話を聞いただけで、私は何も見なかったの。そしたら、小泉の町が流れた、さっき通った実家も流れたっていうんだもの。ほんとに驚いた。そうしたら、陸前高田も流れた。志津川も流れたっていうからねぇ、夢にも思っていない。
こんな津波が千年前に来たんだって、そんなこと、だれも昔話だって思うね。明治の津波のことは聞いてたけども、そんな千年も昔なんて、そんなの、もう誰も聞いてないし、誰も知らない。語りおく(語り継ぐ)も何も無かったからね。それまで、こんな津波が来ると思ってなかったんだよね。そしたら、みんな無くなってね。でも、昼間だからまだ良かったんだよね。波が来たのが夜だったら、まだ亡くなった人もいっぱいいたでしょうね。
今、津波はこんな目にあうと思わなかった。夢にも思わなかったね。
終戦後、登米郡の南方に日立の疎開工場がいろんな機械を持ってきて農機具を造り始めたんですね。そこがいいからって紹介してくれた人がいて、そこで仕事を始め、2年くらい働きました。そのうち、小泉小時代の恩師の千葉ツトムさんが、「学校の先生になってみねえか、試験受けてみねえか」と勧めてくれたんです。「うん、悪くもねえな」と思って(笑)。そして試験受けたら、運よくパスしました。21~2歳ごろでした。当時は、小泉に学制発布で新しく中学校ができたころで、そこへ行きなさい、というわけで中学校の教員になったと。それから40年も経ってます(笑)。
教員になったときの辞令や、履歴書、等級の辞令には給料まで書いてあったんですが、そういうのもみんな津波に流されてしまったので、あまり覚えていないです。初任給はたしか、300円だったかな。
教科は理科でした。それがね、ある方に、「ひとつの教科でしか教員免許状もってないのは『かばねやみ』だ」。つまり、あんまり勉強してねえやつだと言われたんですよ。「バカなこと言うな」って言ったんですよ。「よし、その頑張って他の免許をとる」と心に決めました。そして技術家庭と美術で免許を取りました。その後は主に理科を教えながら、その学校によって人員が足りない時などに技術や美術を担当したりしていました。
最初に配属になった小泉中学校に10何年と一番長く勤めましたが、その当時教え子だった人はほとんどいい年配になっています。その次がお隣の本吉町の津谷中学校に9年ほど勤めました。本吉町の気仙沼市の支所に行くと、教え子が役所についていたりします。で、そこに行くとお茶しようと語られる(誘われる)もんだから、「なんだおめ、仕事しないで駄目じゃねえか」って言うのに、「いいからお茶っこしよう」と言う(笑)。教え子と居るのが一番楽しいですね。
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