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この寄木(よりき)という地名は、台風でたくさんの木がここの浜さ、全部寄り上がって(打ち寄せられて)山になってたと。その前に、田束山(たつがねさん)ていうのがあるんですけど、あそこに住んでるお坊さんがお寺を造りたいということで、ぐるっと諸国巡ったらしいんだね。そんでたまたま通りかかったら、ここの浜さいっぱい、木材が寄り上がって、それを使って、大きいお寺を建てたんだね。ぐるっとその、木を使ってお寺を建築したっていうそれで、寄木いうような地名が。だから家の流されてない、半分ぐらいまで奥はもと海だったんだ。長い年月にだんだん陸(おか)になって、家が建つようになったから、また今後の津波でさらわれてんだ。
この部落でさえ、今度高台さ、移転するんですけども、そこの少し手前の山に、ここの寄木部落で一番先に、住んだ侍、落ち武者なそうですけど、その敷地があるのね。平らになっていて、土台にした石だなんかが残ってる。だんだんに時代が変わって、海で生活するようになってきたんで、山の方から浜まで通うとひどい(体が辛い)というような恰好(かっこう)で、そこからちょこっと行くところから、神さんあるんだけっどね。そこへ引っ越してきて生活したんだ。高いところだから「上(うえ)」ていう屋号がついてるんだ。昔(いにしえ)の人たちもさすが、津波ということには頭を入れて、高台に住んだんだね。今度の津波でも、本宅までは行かなかったけども、蔵のあたりまで波が来たって。昔からの家訓として守って、今度の震災にも助かって。
漁に出始めたのは昭和17~8(1942~3)年だけど、戦争の影響は別になかったね。戦争は南方だべ。行くのはあんまり南方の方さ行かねえから。
でもね、最後、ここで終戦の前の日に、ここが空襲くったのね。そしてね、伊里前(いさとまえ:寄木の隣の部落)の港に、定置網を引く小さな2トン位の漁船2、3艘があったの。弟と2人で、庭先に出てから、小さい桑の木の下で見てたら、米軍の飛行機が飛んできて、一番先頭にあった飛行機が羽ゆすったのね。そしたら、いっせいに急降下してきて、バンバン撃ち始まった。その前の船、ばらばらに沈んだ。牡蠣イカダなども船だと思ったでねえか。弾が当たってね。自分たちの傍に薬莢(やっきょう)が何個も落ったんだ。
そんなことで、その日から「だめだから、防空壕掘れ」って。何も、今考えてみっと、山さ逃げれればなんともないんで、バカみたいな話だけど、防空壕堀りが始まった。だってその時は次の日、終戦になるとはわかんねんだもの。その頃ラジオだってどこの家にもないから。たまたま1軒ね、あったのね。そしたら、「今日なんだか天皇陛下の玉音があるそうだから、みんな来て、聞いてけろ」って言われて、みんなその家に集まったら、終戦の放送だったの。その頃、なに、山中さ逃げてて、艦載機(かんさいき)って、船さ積んできた飛行機だから、「しゃべんな、しゃべんな、敵の飛行機まで聞こえる機械あんだ」っつうから(笑)。今考えてみっとね、バカな話だなあ、と思って。そういう山だなんかあるから、隠れんのに良いんだけども。防空壕、半分掘って、次の日、終戦だった。
私たちも、戦争に召集されれば「奉公袋」って用意したの。写真、爪、髪、こう入れて、戦争行って戦死しても、誰それだってわかるように「奉公袋(遺言状や遺髪などを入れて、戦死の際に家族に届くように準備した)」ってちゃんと名前書いてね。こう用意して、もう1カ月も戦争が延びていれば、私も兵隊に引っ張られてらね。周囲の人たちは結構兵隊にとられて行ったんだべ。私も爪から髪から全部用意していつでも行けるような、準備したところで、行かないで終わりだった。その頃に「奉公袋を入れて町に」なんて軍歌なんかあんだけっども。
漁に関しては戦争中も戦後も、ほとんどかわりないね。
今度、寄木仮設のすぐ上がり口に家を建てたんで、今度そこに入るんですよ。やっぱり、私は、このようになってみんな冗談言ったりするから、次に住むところは仮設のすぐ脇に並んでいるから、仮設のみなさんともしゃべったりすればいい。だから私もいつでも来るから、あなたたちも来てお茶のめ、って言ったの。引っ越しした人は来なくたっていいっていうことはいうなってね、今朝も語ってね、笑ってきたけれども。だけど、家を建てるのは最初孫たちも私も反対だったけれども、そのうちに寄木と韮の浜の両部落の人たちが40戸も、歩いて5分もかからない近くの高台に移転するようになったから、それならばいいんじゃないかってことで、私たちも納得して入るようになったんです。でなければ私も最後まで反対したのだけれど。
今どこでもね、坪単価が急に値上がりして、一坪70万。高いね。高台に建てる人もね、来年の年度末になれば整地始まるんだから、ちゃんと整地始まる前に大工さんを予約しないと、大工さんたちは、もう予約でいっぱいでね。ある大工さんなんて150戸も予約受けてる。だから高台だの、整地ができて家を建てるようになったから大工さんに頼むべ、というようなことでは遅くて、そういうことも頭にいれていて、誰かがどこそこに建てるとか言ってたら、「大工さんがっちり確保して、それから整地するようなことじゃないと、だめだぞ」ってね。そういう風にしないと、3年も4年も今度いつまでも狭い仮設に入っているようになるからって。
すぐに家を建ててすごいと思うかもしれないけど、私たちは海が相手の仕事だから、漁業さえ確定すれば、銀行から借りても払うくらいの金がとれるっていう自信があるからね。
ここ寄木には、250年ぐらいになる、「ささよ」っていう行事がある。テレビで何回も放送して、各新聞社もいっぱい来てっから。1月の小正月にやる、その保存会の会長を50年続けてきました。あとの会長さ譲って2~3年にもなるけど、昔やってた頃は、えらい盛んな形でね。いま人数が5~6人しかいなくなっちゃったですけど。
「ささよ」を残すのに、ほら、言葉ばり(だけでは)伝わんないからと、どのように書いたらいいか、苦心したのにね。これ作ったところ、津波でさらわれてしまって。ほんでも知り合いのところに写しがあったから、それを今度コピーしてもらったのが残ったんです。
残すって、歌津町史も、復刻してもらいたい。今回作んねえと、これから先、歌津町史っつうものが、いま、流されねえでもってる人たちしかねえわけさ。これから先、たとえばまた町村合併があれば、歌津そのものの町史っつうものがおそらく作られねえべかな(作られないだろうな)。だから、今回がいいチャンスでねえかな。コピーとるったって何千もページがあるもの。
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