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漁に出始めたのは昭和17~8(1942~3)年だけど、戦争の影響は別になかったね。戦争は南方だべ。行くのはあんまり南方の方さ行かねえから。
でもね、最後、ここで終戦の前の日に、ここが空襲くったのね。そしてね、伊里前(いさとまえ:寄木の隣の部落)の港に、定置網を引く小さな2トン位の漁船2、3艘があったの。弟と2人で、庭先に出てから、小さい桑の木の下で見てたら、米軍の飛行機が飛んできて、一番先頭にあった飛行機が羽ゆすったのね。そしたら、いっせいに急降下してきて、バンバン撃ち始まった。その前の船、ばらばらに沈んだ。牡蠣イカダなども船だと思ったでねえか。弾が当たってね。自分たちの傍に薬莢(やっきょう)が何個も落ったんだ。
そんなことで、その日から「だめだから、防空壕掘れ」って。何も、今考えてみっと、山さ逃げれればなんともないんで、バカみたいな話だけど、防空壕堀りが始まった。だってその時は次の日、終戦になるとはわかんねんだもの。その頃ラジオだってどこの家にもないから。たまたま1軒ね、あったのね。そしたら、「今日なんだか天皇陛下の玉音があるそうだから、みんな来て、聞いてけろ」って言われて、みんなその家に集まったら、終戦の放送だったの。その頃、なに、山中さ逃げてて、艦載機(かんさいき)って、船さ積んできた飛行機だから、「しゃべんな、しゃべんな、敵の飛行機まで聞こえる機械あんだ」っつうから(笑)。今考えてみっとね、バカな話だなあ、と思って。そういう山だなんかあるから、隠れんのに良いんだけども。防空壕、半分掘って、次の日、終戦だった。
私たちも、戦争に召集されれば「奉公袋」って用意したの。写真、爪、髪、こう入れて、戦争行って戦死しても、誰それだってわかるように「奉公袋(遺言状や遺髪などを入れて、戦死の際に家族に届くように準備した)」ってちゃんと名前書いてね。こう用意して、もう1カ月も戦争が延びていれば、私も兵隊に引っ張られてらね。周囲の人たちは結構兵隊にとられて行ったんだべ。私も爪から髪から全部用意していつでも行けるような、準備したところで、行かないで終わりだった。その頃に「奉公袋を入れて町に」なんて軍歌なんかあんだけっども。
漁に関しては戦争中も戦後も、ほとんどかわりないね。
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