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気仙沼の父親の実家は、階上(はしかみ)で縫製工場をやってました。そこは、最初から縫製やってたわけではないんです。
昔はね、海のほうをやって、私が小さい頃は大網のサンマの油を絞って、油は何に使ったか分かんないけど、あとその残りのサンマは干して肥料にしていたと思いますね。人はけっこう使ってたんですよ。15~6人で、当時としては大きかったですね。
それがつぶれて、最後に縫製にたどりついて、それが成功して、もう何10年になるでしょうか。30年以上、その縫製で生計を立ててきました。何人だったかは知らないけれど、お針子さんも沢山雇っていたようです。今度の津波で工場は流されたんだけど、国の方から「人を使ってください」という要請が来て、今はもう、事業を再開しています。
私の父、お父ちゃんは魚屋さんでした。大谷には「大網(マグロ・イワシ・サバなどの回遊魚を捕らえる目的で、あらかじめ海中に建て込んでおく定置網に近い仕掛け網。入りくんだ岩礁地帯が続き、海藻類が多い本吉地方沿岸では盛んに行われていたという)」というのが3丁目と日門にあって、朝2時頃沖へ行って4時半頃にはお魚をいっぱい獲って帰りました。その網からお魚を買って自転車に積んで売りに行くのが父の仕事でした。
お父ちゃんは、米川(宮城県登米市東和町、内陸部にあたる)くらいまで売りに行っていました。魚箱を2つ積んで自転車で1時間くらい。行きは上り坂だから、家の人が付いて行って自転車を押してね。子どもたちを2人くらい連れて行きました。一生懸命働いたお父ちゃんでした。行商です。商売相手は個人のお客さんでした。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
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