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米川では人がなくなると、お寺で葬儀をしたあと、棺台にひつぎを乗せて野辺の送りをしたものでした。昔は土葬でしたので、亡くなった人が出ると、村の人が桶のような形の棺を亡くなった人の身体の大きさに合わせて杉の木で作り、その中にふつうは膝を抱えて座るような感じに入れ、棺台(がんだい)に乗せてゆっくりとお墓まで担いで運んだのです。身体が下り曲がらなければ長方形の棺にして寝かせ、リヤカーに乗せて運びました。契約講といって近隣の互助会で葬儀を執り行ったのです。
この写真はカナダ帰りの写真屋さんが撮ってくれたものですが、75年前の葬儀の写真です。亡くなった人を家から運び出すときは、玄関から出すようなことは絶対にしません。必ず座敷から出て行きます。そしてそのあとを箒で清めるような動作をしました。
土葬が行われていた頃は、会員が亡くなると会員たちで埋葬のための穴を掘ったものです。そうすると、ご遺族が「これで飲んでください」と1万円ぐらいくださるわけです。そのお金を使って、弔いの酒席をつくる。そうやって交流の場を増やしていました。近くの食堂あたりで飲みながらね。今はそういうこともしなくなりましたが、契約会館で卒塔婆(そとば)をあげたりしてね。火葬となった現在でも、納骨堂の掃除などは会員が行っています。
契約会以外の地域との絆も強いですよ。誰かが亡くなれば、必ずお悔やみにも行きます。昔は必ず亡くなった方の家に行って、3千円とか5千円とか包んでお線香を上げてきたものです。そして、香典のお返しは近いところは直接、持っていきました。でも、最近はお悔やみに行くと受付でお返しをくれるから、便利になりました。その場で全部、済んでしまうんですね。
私のお父さんは昭和5(1930)年に亡くなりました。私が5つの時です。今の子どもたちはテレビ見たりして良く知ってるから、人が亡くなるということがどういうことか、すぐわかる。私は本当の子どもだったんだね、わかんねぇんだね。
父親が死んだ時に、まさか死んだ人でねえっぺね、と思ったから、ふすま開けて、父親の頭にハチマキさせてさ、盥(たらい)みてぇなのに腰掛させたのを見てたんだね。立棺(ご遺体を座らせてお棺に収めること)で土葬だがらね。ただそれ見てたんだけど、死んだなんてわかんないもんだから。すっと、部屋の向こう側から来たお婆さんが、入棺してるのを子どもに見せたくないから、ふすまをバチッと閉めたんだ。
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