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いま、志津川には同じような気持ちで仙台や東京から集まってきた人がたくさんいます。だから、それに参加して、私は百姓だから畑、遊休農地の活用を考えたいと思っています。そうは言っても、私たちも歌津の井の中の蛙ですから、いろいろな人の知恵を借りて全国展開をしていこうと考えているんですよ。
それから、歌津は味噌が美味しいんですよ。というのも、宮城には特産のミヤギシロメという大豆があって、昔は歌津の豆の値段が決まらないと市場の値段がつかないと言われるくらいでした。
とにかく、歌津は土が粘土質だから、どんな作物も美味しくできるんです。大豆も上質で大粒の豆が穫れます。それが、最近は漁業ばかりやって豆は作らなくなった。昔は、歌津の韮(にら)の浜から志津川の袖浜あたりの海岸線は、ずーっと大豆の産地だったんですよ。だからね、それを蘇らせたい。歌津には、昔、麦を作っていた畑が、ハマの方、海岸寄りにあって、草ぼうぼうに荒れた状態でそのままになっています。今でも3反歩か4反歩は残っているはずです。そこに、トラクターさえ入れればすぐに使えるようになります。土地の所有権の問題もあって、機械を通す道を作っておかなかったので、それができないでいるんですが、何とかならないかと考えています。
そして、ただ大豆を売るのではなく、味噌を作るんです。これは絶対にいいと思いますよ。美味しいし、雇用も生む。私も震災前には、黒豆を作って大きな桶で味噌も作っていました。その味噌がおいしいと評判で、以前は神奈川県の茅ヶ崎に住む親戚にもよく送っていました。その味噌で味噌汁を作っていたら、香りをかぎつけた近所の人に「どこの味噌か」と質問されたこともあるそうです。しかし、津波で私の家にあった2つの味噌樽は流されてしまいました。でも、おそらくどこかに種は残っているはずです。もし、この味噌を復活させることができたら、必ず歌津の名産品になるでしょう。
味噌は、小鯖に嫁に来た頃はずっと家で作ったの。豆を煮てね。親類でカツオ製造する家があって、カツオ煮る窯で豆を煮てもらって、そして手で回して潰して、塩入れて、麹は入れたったかなあ? そうして作ったんです。ここ結んで、藁でこうくるんで、こうぐってそして炉さつるしてね、カビが生える。そのカビがいいんだ。私は笹浜の実家にいる時から見てきたから、わかってんだぁ。味噌は秋に豆がでるから、仕込みは秋でしたっけかね。
家で作らなくなってからは、最近までは気仙沼で作って貰ってたんですね。子どもたちが、「仙台の住民は仙台味噌ってやるのに、なんで唐桑から味噌もって行く。いらない」って誰も食べないから、いまは家でも近所で買って食べるの。生協さんが持ってきてくれるし、お店でどこでも売ってるからね。
お茶も作ってましたしね。囲炉裏に炭をおこしてね。四角な入れものに、何枚も何枚も厚く紙を貼ってね。そこに蒸したお茶の葉を入れて、炉の上で蒸気を飛ばしながら揉んで、カラカラになるまで水分を飛ばして、作ってましたよ。新芽がでたころね。5月かなあ。今はそんなこと、する所どこもないけど。
とにかく、自給自足でしたからね。どこの家でもね、田はあるし畑はあるし、小漁にいって父親とか兄たちは魚獲ってくるしね。ホヤ、アワビ、ウニ、そういうのを食べて育ってね。骨のうるさい魚でも、アワビでも何でも好きだから、「なんぼでも食べろ」って、アワビなどは、周りの固い所を包丁で取って真ん中ばり(だけ)食べました。なんぼ好きでも、2個も3個も食べれば飽きてしまうから、もらって行くからって、むき身をポケットさ、いっぱい入れて持って帰って来たもんだ(笑)。今なら、買えば1個1000円以上するもんね。
梅干をつけるのにね、家のお姑さんが、「梅は、毎年なるもんでないから、今年なったらいっぱい漬けなさい」と。「来年はなんないかもわかんないよ」って。
その頃のご飯はお米と麦を混ぜた麦ごはんでした。麦ごはん食べたいねえ。あれで育ったんだものねえ。
そして学校にもって行くお弁当のおかずってば、「今日は何入ってるかなあ」なんて、そんなこと思わないのさ。必ず、味噌。梅干し。そんな程度で卵なんて見たことも無かった。
学校に行く途中に、行政書士さんのお家があってね。そこの家ではね、卵を割った殻を盆栽の上に載せておくんです。って、横目で通って見たの。その頃は「ああ、この家で卵食べてるんだなあ」って思って通ったもんだ。嫁に来たら、この家ではニワトリ飼ったんだって。だからお爺さんが、「ああ、卵なんて見たこともなかった」って私が言うと、「はあ、卵なんて食べたこと無くてここ来たのか。卵なんて他人にあげるくらいあったんだ」って言われました。そんくらい、卵って貴重なものだった。
この辺りは戦争終わるあたりから、何にも食べ物なくてね、こんなに今太ってしまったがね、当時は細くて、おなか周りを日本手ぬぐいで縛れたもんですよ。
食べ物はつくしの里の方から小鯖の海岸まで倉庫があって、そこでお米の配給があったのさ。10人の家族はこのくらい、5人はこのくらいって、お米の通帳(米穀通帳)渡されてね、それを持ってきて、お金と交換です。そしてお米も、トウモロコシも、お砂糖も、何でもかんでも配給されて、食べ物はなくてなくて困ったの。
魚は獲れても、漁協の方で集荷してお金にしたわけ。配給のものを買うためにね。とにかく人が寄れば食べ物のお話だったのね。「家では昆布を拾ってきて、雨にさらして真っ白くして、乾かして臼でついて、こんまく(細かく)してご飯に混ぜて煮る」とか、「大根の葉っぱ食べろよ」、とか「サツマイモの茎を食べる」とか、「イタドリ(すかんぽとも呼ばれ、茎は酸味がある)を食べる」とか。とにかく、食べ物の話しかしなかったのね。そう、大変な時代を超えたの。
昔は、まずお肉なんて食べない。魚だけ。よそ様からメカ(メカジキ)をいただくと、「あ、今夜はライスカレーだ」って。メカでカレーやったの。どっかの船が港に入れば、必ず魚を頂くと。うちの船が入れば、よそ様へあげる。やったり取ったりしたもの。魚は全部自分でおろしましたよ。カツオとか、サンマ、イワシ、なんでもそういうのを加工しに働きに出てたから、だから魚は何でも捌ける。工場に男の方がいっぱいいるの。自分で獲ってきた魚をいっぱい捌くんです。みなさんお茶を入れている間に、「ここから包丁入れるの、こうやって」って、教えられるの。男の方に教えられたんです。
だから、最近になって、お刺身買うようになった時はね、「昔は魚なんて、刺身なんて買って食べたことなかったのになぁ」とね、そう思ったよね。店頭に並んでるお魚は、一味もふた味も味が下りてん(落ちてる)のね。どうしても。獲ってきて、すぐお店に並ぶわけでないから。そういう感じがあります。うんうん。
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