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私が町長時代に行った一番大きな仕事は、何といっても「歌津町小学生ミュージカル」です。平成6(1994)年から合併前年の平成16(2004)年まで11年の間、毎年、公演しました。伊里前小学校と名足(なたり)小学校という2つの小学校による子どもミュージカルです。
これは、魚竜舞でお世話になった梶賀さんとの出会いから生まれた事業です。魚竜舞の練習をしていた時に、梶賀さんが休憩を入れるときに「はい、休んでや、休んでや」と手を叩くと、練習で汗だらだらになった参加者は「あぁ〜、こえこえ。ちゃごまっぺや、ちゃごまっぺや」としゃがみこんでしまう。歌津弁で「こえ」は疲れた、「ちゃごまっぺ」は座るという意味です。その光景を珍しいと思ったのか、梶賀さんは「歌津にも、方言がだいぶ残ってるんですね」と言ったんです。
じつは、私も魚竜舞を進めるうちに、歌津の方言でやってみたらと考え始めていたので、そう言ったら、何かアイデアはあるのかと問われたんです。そこで、「保育所の子どもから中学生まで、歌津の子どもたちを全部、ミュージカルに出したい」と言いました。梶賀さんも、さすがにそれは無理でしょうと言ったのですが、私はとにかく全員の出演が可能か、各方面に聞いてみるからと、まず教育施設に話を持ちかけました。保育園では父兄が心配するから難しいと断られました。中学校でも部活動を理由に断られました。しかし、伊里前小学校と名足小学校は二つ返事で賛同してくれたんです。そこで、小学校で話を進めることに決めました。
小学生の生徒数は、2つの小学校を合わせて450人くらい。その生徒たち全員で、年に1回、秋にミュージカルを発表します。各学校1時間ずつ、合計2時間の発表会です。練習は春から始め、勉強に支障が出ないように、放課後を使って行いました。指導はすべて梶賀さんにお願いして、仙台から通っていただいた。予算は、県の予算から1千万円が出ました。2校とも発表会は同じ日で、舞台は歌津中学校。普通の舞台だと全員はあがれないから、仙台から舞台装置のプロを呼んで、当日の照明、音響、舞台装置を作らせたけど、それだけで5百万円はかかりましたね。
歌津が村だった頃は、私(おらい)のおばあさん(お母様)は、寺子屋っていうところに通っていて、4年で終わり。学校に4年生までしか行かない時代です。ずっと前さ。私らの生まれる前のことです。明治生まれだものおばあさん、今生きてたら100歳超えてますよ。
寺子屋のあった場所は、今の歌津町の漁業協同組合のあったところで、組合が寺子屋の土地を買ったの。あそこで勉強したんですね。
小学校は後からできたんです。最初は雄飛小学校というのがありましたが、それが無くなって名足小学校っていうのができた。だれも名足を「ナタリ」とは読めねえべ。初めでの人は「メエソグ」「ナアシ」と読んで「ナタリ」とは読めねぇべさ(笑)。
私たちがいた避難所には小学生、保育所の方々、中学生高校生、地域の方々と幅広い年齢層の方が集まっていました。幸い、子どもたちは校長先生の的確な判断ですぐに避難して、1人も流されなかったのです。
その日、PTAの役員会があったことも幸いしました。避難所では、大人どうしが集まると、津波についてやっぱりしゃべるわけです、ああだった、こうだったと。そうすると、小学校低学年くらいの子どもが怒って「言うな」って言うんです。彼等も津波というものを自分たちの目の前で見たんですね。だから、大人がその話をすると耳を塞いで、「言うな言うな」って。
日本人として生まれて良かったと思ったのは自衛隊の人の来た時ですね。同じ日本人が助けに来て良かったと思いました。あとはアメリカ空軍の方々、あれには助かりましたね。ただ、言葉が通じないのが非常に残念で、英語も少し勉強すれば良かったと。食べ物は身振りで通じますが、避難所で「女性の下着がないから、なんとかして」と言われた時は困りました。アメリカ兵に「ブラジャー」と言っても通じなかったんです。それで、サイズを表すBのなんぼとか、Fのなんぼとか行ってみたら、「OK、OK」と言って理解してくれました。
米軍のヘリが救援物資を持ってくるのに、名足小学校の校庭にヘリポートを作って、そこに来た救援物資を、われわれの地区だけでなく、周りの地区にも分配していました。隣の地区の人が、自分たちの地区にヘリポートのHの字を描いたら、今度は米軍のヘリがこっちにまったく来なくなり、「隣に見に行って見っぺさ」と行ってみたら、隣の地区にばかり降りていました。物資がそちらに行ってしまったんです。そういうことがありましたね。
その救援物資は、食べ物も生ハムとかジャムとかパンとか、アメリカの人が食べるものだからさ、食べ慣れないものでした。それを半分ずつに切って。
うまかったなぁ。でも、来る日も来る日も、一生分くらいパンを食べました。それからカップヌードル。もう沢山という位で、あれから私はパンを食べていません。後になると野菜などの生ものも支援物資が来て、ありがたかったですね。
山に逃げて助かると今度は、地区の施設に行く途中に木の間に挟まっている人がいるというので、チェーンソー持って来て、切って助け出したんです。途中で2、3人の人を助け出したんですが、怪我をされていて、今でも助かったどうかは分かりません。まさに地獄でした。夜は、雪で寒かったですし。
自宅に戻ったのは翌日でした。
山を降りて道路に出ると、向こうからアメリカ製のジープのような車が来たんです。運転していたのはガタイの良い男の人で、「乗っけてくんねえか?」といったら「いいですよ」と言って乗せてくれました。
その人が「私たちも歌津地区に行こうと思ってたんです」というので、よくよく話を聞いてみたら、「坊主ですから」って。その方は和尚さんだったんです。ぱっと見ただけではそんな風には思えない人だったんですよ(笑)。歌津のお寺が流されたという連絡を受けて来たということでした。タイミングがちょうど良かったんです。
それで乗せていただいて自宅に戻ることができました。自宅は流されませんでしたが、浸水して、またいつ何時津波が来るか分からない状況だったので、家族は名足保育園の避難所にいました。私は津波が来る前の最後の電話で、女房に「慈恵園にいる」って連絡して、それから家族と音信不通になっていました。だから、慈恵園が流されたと知り、家族はもうダメだって思ってたんでしょう。避難所に私が現れて「おい」って言ったらびっくりして、「ああ、生きてたのか!」なんて(笑)。
そこから、避難所の方々も食べていかなければならなかったので、家が残った方がたのところに米があったから米を持ってって、食べてもらいました。白米は少なく、玄米の状態でしたので、昔の家庭用の脱穀機を引っ張り出してきて、それで白米にして持っていって食いつなぐ、という状況でした。
私は毎日のように朝早く避難所に行って、夜遅く自宅に戻って、という生活をしていました。みなさんの要望聞いて昼間は避難所に行って物資を運ぶなど、いろんな用件を受けていました。要望はいろいろありますから。ところがガソリンが無いですから、車を使うような要望には困りました。
一番困ったのは津波に流された方のご遺体が見つかっても、それを火葬場まで運ぶガソリンが無かったことなんですよ。自衛隊から、ガソリンがないから、ディーゼル車を借りようということになって、2トン車のディーゼル車があったわけです。乗用車のバンだと、1体ずつしか運べないけれど2トン車だと複数運べるのです。燃料は軽油です。
次はこの軽油をみんなでなんとかしようと。それで、トラクターなどの農機具から抜いて、車に入れて、ご遺体を運んで火葬することができたんです。それはほんとうに情けなかったね。花一輪ないんですから。何にもない。可哀想でしたね・・。
昔からの井戸が自宅の下の方にあったんですが、4月7日ごろの2回目の地震で、水質が変わってしまって塩っぱくなって、飲めなくなったんです。海のそばだから管に亀裂か何かが入って、そこから海水が入ったんではないでしょうかね。今はもう塩気も薄くなりましたが、当時は洗濯に使うと乾くと塩が出るほどでしたね。
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