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制服は、俺たちはどっちかっていうとホントの学生服でなくって、なんていうかな、近所の人のお下がり、着たったと思うよ。
俺たち「うるし柿道路」って言ってたんだけど、その道路が米川に通じてんのさ。片道12キロあった、その道を通って自転車で米川に通学したんだね。パンクしたら押して帰る。迎えに来るったって、今みたいな自動車もないしね。冬になっと、この道路が雪で大変だった。自転車もなにも通れなかったから、みな歩いていくんだ。ゴムの長靴買ってあるからね。家を出されたったね。
大きな雪の時は、休むんだけどね。ただ近所に同級生の女の子がいたのさ。その人がまた、まじめすぎて、どんな雪でも学校に行くんだね。「なんだ、キヨコちゃんが行くのに、お前がいかねえつうことあんのか」って親に言われて、まず、こっちは辛かったね(笑)。ほんとその人のことば恨んでね(笑)。
北上川が溢れて、この辺が水害になったことあったんだ。飯土井(いいどい)あたりの、今登米市の庁舎がある近辺の人たちは、水害で長靴もらったのね。長靴なんてのはなかなか買ってもらえない時代に、配給になったんだ。俺たちは山の中だから貰えないわけっさ。あのときはホントになんていうかなあ、欲しいと思ったね。
行き帰り友だちと話したのは、たぶん、先生の悪口とかなんかそんなでなかったかねえ。今日はあの先生だから授業に行かないべとか(笑)。
当時、俺たちは大きなアルミの弁当箱にいっぱいご飯詰めて、梅干1こぐらいで暮らした時代だからね。キケガワ君っていうのが野球部のマネージャーだったのさ。奴が、俺たちが一生懸命練習してる時に俺の弁当食べた後の空に、石を入れたのね。そして俺がそいつを知らねえから、ほれ、片道12キロもカタカタ、カタカタ自転車で帰って来て、家に帰ると石のおかげですっかり穴が開いて弁当箱が使い物にならなくなったのさ。冗談がすぎたようなイタズラだっんだけどね。そういうことあったね。今でも同級会なんか出るとその話になるんだ。
ヤマ学校で何か学ぶべかねえ? 体力がついたかも知んねえね(笑)。相撲取りだの山を上り下りしたんだから。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]昭和14(1939)年生まれ
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