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この辺は田舎だから、結婚式や葬儀もいろんな取り決めがあるんです。まさか急に親父がそんなことになると思っていないから、親父にもどうするかなんてあまり聞いてもいないし、年配の人にしたってきっちり覚えている人は少ないし。外野席は一杯いるけど、きっちりと葬儀を仕切れる人はいなかったんですよ。やり方がわからなくて、批判されました。その時自分で苦労したからそれ以降、従兄弟たちに恥をかかせないようにいろいろ教えておきました。
私のような3代目になると、かなり親戚が増えるから大変なんです。冠婚葬祭も3代分の付き合いに渡ってやるようになります。1代目の関係する人たちは、全国に出ているわけです。八王子にも親戚が3軒あるんですよ。普段は連絡をとらないけれど、そういう時の連絡は間違いなく来ます。全部、礼を欠かさず、冠婚葬祭の誘いには行きましたよ。
親父の病気が見つかってからの10年間は、女房もそうだったと思いますが、ものすごくハードでした。よく乗り切れたと思います。それもね、兄弟が多いから支えられたんだと思う。私の兄弟6人に親父の兄弟は10人いましたし、一人仙台空襲で昭和20(1945)年に亡くなっていますが、その他はみんな所帯を持ってるんです。2~3人の家族で、あの状況を乗り切れるかっていったら、無理だったと思います。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
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