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3月11日当日は、お昼食べて、家内と2人でいたんですよ。3月の中旬ですから、寒かったですね。揺れもでかかったし、長かったですが、家のなかは何も倒れなかったですね。玄関に出ると、孫が大事に飼ってた金魚鉢が倒れそうになってました。「これは津波が来るぞ、絶対来るから、逃げろよ」と家内に言い置いて、自分は車を流されてはだめだと思い、すぐ出して、歌津中学校まで持っていきました。一回車を置きに行って、「まだ津波は来ねえな。もうちょっと時間があるべ」と思って、自宅に戻って、寒いなと思ったから、ジャンバーだけ着て戻ったんです。何か持ちだそうと思えば、いっぱい持ちだせる余裕があったのよ。もう、だから、自分自身も甘く見ていましたね。こんな大きい津波が来ると思ったら、いろんなもの持ちだして、車に積んで逃げたと思うんですよ。いやあ、あとの祭りだ。
それでも、一番最初の町の防災無線の放送で、津波の高さが6mと聞いてたから「6mだったら1階の高さくらいまで来るんだろうな」と思って、ただ車のことだけ考えて、他に何も持たないで逃げたんです。「また帰ってくればいい、ここまで来ないだろう」って思ったの。家内も「まあ、また帰るわ」と家の中はそのままで伊里前小学校まで逃げたんです。だから2人でお互いに小学校に逃げたことは校庭で確認できました。だけど、そこも埋立地だから、前のほうが、地割れしていたんです。「地割れしたから前の方に行くと危険だよ」と言われたけれど、かなり裂けていましたね。
公民館のほうに家があったもんで、気になってね。
その校庭まで津波が上がったんですからね。ここまで水が上がったの。すごかったですよ。あっと思ったら一発でドシャーン。家は波がグワーーンと来て、瓦礫がバシャーンと来て、自宅の前までちょっと止まって、それからブワーッと一気に流されていきました。それはもう、水の量がどんどん、どんどん増えて行ってね。小学校の後ろにまた道路がありますが、みんなそこに避難した車を停めてたんですよね。最後の方は渋滞して、大変だったと思うんですが、それがみんな流されちゃったんです。それを見ながら、さらに高い所、小学校の上の中学校に逃げたんです。大変でした。ずっと見てたら私も流されているところでした。
伊里前小学校は、地域の避難所になっていたので、常に避難する訓練していたんですよ。私が思うのにはね、志津川もそうなんだけども、「避難所ですよ」と指定して、しかも訓練までさせて、そこに逃げたのに亡くなった人もずいぶんいるんですよね。この伊里前小学校だって、夜暗くて道がわかんなければ、ここに避難して来られなかった人もあったとおもうんですよ。だから、避難所の指定の仕方も甘かったのかな、想定外ですむのかな、と考えてしまいますよね。
昭和8年の津波のときは、小学校の1年か2年だったかな。現在の歌津中のすぐ下あたりに住んでいたんだけど、3月3日の夜でした。揺れが長くて、5分ぐらい続きました。もう収まったから寝ようと思った時に、隣のおじいさんが「津波だ~!」って声を出したものだから、一目散に下の伊里前小学校のほうに逃げだしたんです。その津波では、歌津全体ではで4~500人の方が亡くなったんです。だけどこの伊里前ってとこはひとりも死んだ人がいないのね、1軒は船が突っ込んだけども。というのは、うちの前がちょうど道路で、水がちょこっと乗っただけで済んだほどで、伊里前では水がほとんど上がらなかったからなのです。
私が町長時代に行った一番大きな仕事は、何といっても「歌津町小学生ミュージカル」です。平成6(1994)年から合併前年の平成16(2004)年まで11年の間、毎年、公演しました。伊里前小学校と名足(なたり)小学校という2つの小学校による子どもミュージカルです。
これは、魚竜舞でお世話になった梶賀さんとの出会いから生まれた事業です。魚竜舞の練習をしていた時に、梶賀さんが休憩を入れるときに「はい、休んでや、休んでや」と手を叩くと、練習で汗だらだらになった参加者は「あぁ〜、こえこえ。ちゃごまっぺや、ちゃごまっぺや」としゃがみこんでしまう。歌津弁で「こえ」は疲れた、「ちゃごまっぺ」は座るという意味です。その光景を珍しいと思ったのか、梶賀さんは「歌津にも、方言がだいぶ残ってるんですね」と言ったんです。
じつは、私も魚竜舞を進めるうちに、歌津の方言でやってみたらと考え始めていたので、そう言ったら、何かアイデアはあるのかと問われたんです。そこで、「保育所の子どもから中学生まで、歌津の子どもたちを全部、ミュージカルに出したい」と言いました。梶賀さんも、さすがにそれは無理でしょうと言ったのですが、私はとにかく全員の出演が可能か、各方面に聞いてみるからと、まず教育施設に話を持ちかけました。保育園では父兄が心配するから難しいと断られました。中学校でも部活動を理由に断られました。しかし、伊里前小学校と名足小学校は二つ返事で賛同してくれたんです。そこで、小学校で話を進めることに決めました。
小学生の生徒数は、2つの小学校を合わせて450人くらい。その生徒たち全員で、年に1回、秋にミュージカルを発表します。各学校1時間ずつ、合計2時間の発表会です。練習は春から始め、勉強に支障が出ないように、放課後を使って行いました。指導はすべて梶賀さんにお願いして、仙台から通っていただいた。予算は、県の予算から1千万円が出ました。2校とも発表会は同じ日で、舞台は歌津中学校。普通の舞台だと全員はあがれないから、仙台から舞台装置のプロを呼んで、当日の照明、音響、舞台装置を作らせたけど、それだけで5百万円はかかりましたね。
小学校3年生までは近くの上沢分校に徒歩で登校していました。小学校4年生からは、伊里前(いさとまえ)小学校へ自転車で通いました。
本校では最初はお弁当でしたが、お弁当を手で隠して他の子に見られないように食べている子がいたのを覚えています。麦飯のお弁当に海苔を一面にベッタリとはって醤油をたらしただけのお弁当などで、見られるのが恥ずかしかったのかな。私自身は、そういう食べ物が大好きだったんですが。
小学校4年生から給食になって、食事の雰囲気は変わりましたね。皆が同じものを食べられるようになったんです。割烹着に三角巾をつけた給食当番が、寸胴鍋を運んで、アルマイトの入れ物に分ける。好き嫌いもできないし、みんなで和気あいあいと食べられることが嬉しかったです。脱脂粉乳が苦手で、飲んでもらう代わりに別の物をあげる子がいたりしました。私は、小学校3年までは先生に注意されるほど好き嫌いが激しかったのですが、そのうち好き嫌いがなくなりました。
それでも淡水魚はいまだに苦手です。渓流釣りは好きなんですけどね・・。
当時は停電になる日があり、その時だけは給食が出ないので、お弁当持参の日というのがありました。その日は、お弁当を持ってくることができなくて外で時間をつぶす子もいて、今でも忘れられないものです。長じて自分が親になり、PTAの役員をしていた時に、保護者が給食の味に多くを注文する場面を目にして、そういう保護者にも給食が出来た理由を知って欲しいと思いました。我々の時代に、子どもの栄養の偏りをなくすためにできたのが給食です。みんなで楽しく平等に食事ができるための給食なんですね。
避難したのは、歌津中学校の体育館です。あの晩はかなり雪が降ったんですよ。
まずは下の小学校に駆け登って、たどり着いて、少し疲れて休んだんです。伊里前小学校のプールの近くです。
そうしたら、同級生がそこで亡くなったと後で聞かされて、俺が休んだ直ぐ近くで亡くなったんだなぁと思いました。私の場合は、どうしてこうしてよくわからないけれども、すっかりずぶ濡れで中学校へ避難しました。寒くて寒くて・・。
そうしたら、どこから持ってきたのかわからないけれど、パンパースをもらって一晩履いて過ごしました(笑)。将来の練習をしたのかな?と笑いました。それで、3日間中学の体育館にいました。
それから今度は、平成の森に畳を使っている部屋があって、友だちが「こっちに来たらいいんじゃね?」と誘ってくれたので、そこでまた3日3晩くらいです。その後、知人の踊りの名取をしている方がいて、そこの津波を被らなかった稽古場をお借りして、そこはかなり長く3カ月くらい過ごしました。それで、ここに抽選が当たって入居したんです。
仮設というのは、自分ではどうにもできないでしょ? みんなが一線です。「お金持ちも、貧乏人も・・」って言葉があるけれど、そういう感じ。みんなスタートラインに一緒になったという感じです。
お金持ちの人はそれなりに銀行に預けてあったり、そういうことはあるだろうけれど、それにしても、スタートラインに立ったということだけは事実だと思います。だって、みんな同じです。隣に住んでいる人のところは、やっぱりここと変わらない。仮設住宅を作った会社によって間取りとか造作に少し違いがあるかもしれないけれど、大体は同じです。
私は、ここ(平成の森仮設)の人はだいたい知っています。隣の家は、私より1つ後輩なんだけど、行方不明のまま半年過ぎたからということでお葬式をしました。見切り発車だな。道路を挟んでそっち側は女房を亡くしたとか・・。できるだけみんなで励まし合いながらすごしているという感じです。色々考えてもしょうがないなと、そんな風に思っています。
津波で流されたけれど、おふくろの位牌は見つかって届けてもらいました。おふくろは体が弱かったんです。人工肛門ってあるでしょう? 今は普通だけど、この辺ではおふくろが最初でした。ヘモ、痔が悪くて人工肛門の手術をして、そんなふうでも結構長生きしてくれて72歳で亡くなりました。ま、俺の年までは生きてくれました。
小学校は伊里前小学校です。私が小学校1年生の時が終戦です。だから、ノートって無かったんですよ。朝の連続テレビ小説「おひさま」、やっていますね? あれと同じ時代です。物が無い時代です。
ノートがないから、石板に蝋石(ろうせき)で書いてね。で、その場で消すわけだから、何も残っていません。小学校3年生くらいまで、そんな感じでした。
お昼も、食べ物がほとんど無い時代なものだから、お弁当なんだけれども、持って来られない人もいて、それで学校を休む人も結構いました。例えば、さつまいもを2本くらい弁当缶に入れて、それがお昼ご飯・・っていう風な。その、さつまいもも、なかなか持って来られない人たちは、学校に来ないで休んだというような、そんな時代でした。お弁当を腕で隠して食べてね。
持って来られない人は「山学校」と言って、家は出るんだけれども学校へは来ない。山を歩いて食べられそうなものを探すんです。飢えてるからね。同級生だけじゃなくて、もう食べるだけで精一杯という時代だったんです。それでも、歌津は比較的真面目だから半分以上は学校に来ていたと思います。クラス全員が揃って出席なんて日はほとんどありませんでしたね。食べ盛りがいる家は、食べ物のやりくりに大変だったと思います。
履物も、その頃は、ズックとか長靴が無いから、雨が降ると裸足で学校へ行くんです。それで、伊里前小学校の池で足をザブザブと洗って教室へ入る。私は、幸いにして裸足で学校へ行ったという経験は無いけれど、遠くから通ってくる人たちは裸足で、それに傘とか合羽も無いから、ケット、毛布ですね、それを頭から被って、あるいは蓑笠、テレビで観たことある? お百姓さんが、昔着ていた藁で編んだ蓑と笠です。そういうのを着て学校へ通っていた人がいた時代です。普段は草履か下駄です。藁で編んでね。藁草履です。子どもが自分で編むということは無かったですね。草履を編むのは、雨の日や夜の仕事でした。
私は学校が近かったんです。家から250メートルくらいでした。
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