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相澤さんは、NHKの政治部の人で、3月25日から10日間密着取材ということでご一緒しました。この頃、仮設住宅について、県のほうは公共用地にしか建設しないという方針でした。3500世帯分の内、1080世帯分しか建たないということだったんです。
自分としては地元を離れたくないので民有地の活用を願っていたのですが、県に話しても取り付く島もない状況でした。その時に相澤さんに電話して状況を話したら、すぐに国交省の大臣(2011年3月当時は大畠章宏大臣)に「被災地の生の声はこうです」ということを話してくれて、国のほうから県に話があって、今の民有地を使えるようになったんです。
相澤さんがいなかったらどうなっていたか、と思います。後で町長から「あんたが突っ走るのだけが心配だった」と言われました。相澤さんは「私は何もしてない。ただ大臣に繋いだだけです」と言っていたけれど、相澤さんが動いてくれなければ、仮設の建設はもっと遅れ、こんなに早くは実現できなかったでしょう。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
私たちはいろんな避難所の中で一番恵まれた避難所だったと思います。
RQの皆さんが朝と夕にやっている班長会議に必ず出てきてくれて、"相談する人もなく即断する"ということをずっとやっていた私にとっては、常に"聞き役になってアドバイスしてもらった"ということが、大きな支えになってきたんです。
皆さんがいなかったら、自分もうまくコミュニティの人々をまとめることができなかったのではないかなと思います。愚痴を聞いてもらって、自分の息子ほどの年齢の人たちに支えられて、乗り切れたんです。お茶っこや足湯で息抜きの場もできました。
100人以上の人が共同生活を送れば当然面白くないことがあるもんですが、息抜きの場があって、そういうことにも耐えていくことができました。ずっと以前から付き合いがあったように思えたし、今こうやってまとまって仮設住宅に来ることができたのは皆さんのおかげ。本当に苦しい中、助けられました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
地域のキーワード:RQ市民災害救援センター, お茶っこ, 中瀬町, 志津川, 足湯
うちでは、葉タバコ、米、野菜を作っていました。いろんな野菜を作っていました。大根、白菜は当然のこと、ニンジンも作ってましたね。
今のように野菜を市場に出荷し始めたのは昭和52(1977)年からのことで、その前はすべてお袋がリヤカーで売り歩いていたんです。だから毎日現金収入がありました。1日売れば少ないときでも5~6千円入ってきました。そのお金は日々の生活に使いました。タバコと米は年に1回の清算でした。
そのほか酪農をしていました。酪農は親父と長女と2人で牛を4~5頭飼っていたんです。昔の乳価は高くて、月1回の清算で、そのお金で物置を立てたり土地を買ったりしていました。
昔は野菜と酪農を同時に営む人は多かったんです。養蚕やってた人もいました。しかし、中瀬町では海で生計を立てている人はいませんでしたね。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
中瀬町の中心は志津川の駅のあたりなんです。中瀬、竹川原、廻館、塩入地番の4つで一つの中瀬町という行政区を作ってきました。住所と集落の名前は一致はしないんです。こういう例はこの辺りでも少ない。林、大久保、とか地番が部落の名前になっているのがほとんどです。中瀬町は含まれる範囲が広いんですね。私らが子どものころは30世帯ぐらいしかなく、廻館には5~6軒、それ含めて40世帯ぐらいしかなかったの。その内の8割は農家でした。流される前は197世帯ありました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
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