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じゃあ、だったらマグロ船に乗ろうかと思いたって、それに5年ぐらい乗ったかな。船の仕事に戻ったのは、やっぱり慣れた仕事のほうがいいということです。何も考えず、なすべき仕事だけやってればいいんだもん。勤めてたら毎日仕事しても、まあ日曜日くらいしか休めないわけですよね。船乗りはまとめて休めるから。休める時は、1か月とか2か月とか長いですし、その間にも給料だって入ってくるし、それ考えたらこちらのほうがいいんですよ。
一番遠いところでは、ニュージーランドとかオーストラリアとか、あっちの方行ったね。マグロって言っても種類があるわけです。例えば、一番この辺でポピュラーなマグロは「ビンチョウマグロ」「キハダマグロ」「メバチマグロ」なのね。マグロ船としては、違う種類のマグロ、「ミナミマグロ」を獲りに行かないと。そのほうが高いの。「クロマグロ」の次ぐらいに高いわけ。だからニュージーランドまで行くわけです。
そこで働いていたのは3年位かな。あとはもう結構船の大きさを小さくして、なるべく早く家に帰ってこれるような船を選んでいました。船が小さいということは、積み荷が少ないということです。積荷をいっぱいにしないと帰ってこられませんからね。たとえば大きな船、魚艙(ぎょそう)に300トン詰まりますよっていうような船の魚艙見てから行ったら、がっかりしますよ。「うわー、これを今からいっぱいにするんだ・・」って。(魚艙が大きい分だけ)うちになかなか帰れないっていうことですからね。
正直、マグロには飽きています(笑)。贅沢? だって毎日食事に出るんですから。マグロの状態を見るのに尻尾切った時点で、「ああ、脂が乗ってる」とわかると、「じゃあ、下ろして食べよう」ってことになるんです。私らは公務員だから獲った魚を家には持って帰れないんです。だから、食べて帰る。マグロの解体ショーとかやれって言われてもできるね。
マグロ1日10トンも釣ってみなさい。すごいですよ。もう、マグロ、マグロ、マグロ。全部血を抜いて、内臓をキレイに取り除いて製品にしなきゃなんない。そうして業者に出しても「あ、頭がない。これはいらない」と言われてしまう。なくてもいいようなもんだけども、そうじゃないわけ。築地に行ってみるとわかるけども、きれいな形になっていることが大事なんです。1日10トン、11回で120トンも獲ってみなさいよ。寝る暇なんかなくたって、もう最高だね。早く船が1杯になれば、それだけ早く帰れるじゃないですか。今はダメだけど、昔は船に積める漁がたった1日で獲れちゃう時もあったよ!(笑)
養父は遠洋漁業の船乗りでした。ずっとね、マグロ船に乗って、北洋とかに行ってましたね。若い時は、カレイやカニも獲ってたみたいですけど、私が覚えてるのはマグロですね。一度船ででると、3カ月から半年ぐらい帰ってこないんです。たくさん魚が獲れれば帰ってくるのは早いけど。そういう生活ですよね、船乗りはね。
父はいわゆる半農半漁で、小漁(こりょう)でした。だいたい私の生まれた所はね、小漁が専門でね。私たちの孫の代くらいからかな、おっきな船にのったのは。そのころは船も機械ではなかったから、ちっちゃい手漕ぎ船で漁に出ていました。獲りがきの(獲ったばかりの)魚を食べて育ったのね。そのころは、小漁をするどこの家でも、大きい魚とか、大きいアワビはね、漁協に売りに出して、売れないようなちっちゃいのを家で食べたの。10人全員でご飯を食べる時も、自分の分の骨は「あんたはちっちゃいから」なんていって取ってはもらえないの。みんな同じように自分で食べるんです。そして私も一生懸命、もくもく食べたんじゃない?(笑) だから今でも骨取って食べる小魚が大好きなの。
お米は家では半年買わなくても良いくらい、自分の家の田んぼから収穫していました。自分の家で食べるための田んぼもあれば、畑もありました。そのころはみんなそんなでした。
兄は学校が終わる(卒業する)までは小漁をしてたんだが、あと、学校終わってからは遠洋漁業に出てね。マグロとか、カツオ船とか。家を離れているのは、昔はそんなに長くなくて、3カ月とかね。あんまり遠くに行く漁船には乗んないで、まず、普通に手伝ったりしてね。兄は家督を残して結婚したら家を出たので、1人抜け、2人抜けってだんだん家にいる人数は少なくなって行って。
2番目の兄は婿養子に行ってね、子どもが2人あったの。それがね、宮城県の主導する宮城丸(水産学校の教育用の船)に普通の船員として乗って行ってね、戦死したの。米軍の魚雷が当たって、「轟沈」でした。5分以内に沈めば「轟沈」っていうんだってね。昭和19(1944)年の話です。いま、自分が結婚して、婿養子に行った先の義姉が30代で未亡人になったが、かわいそうだったなと思ったね。それで、義姉のところに、着る物とかなんとか、いろんなものを送ったのを覚えてるね。
ただ、その頃は夫が死んでも、田があり、畑があり、自分の家で食べるくらいは働けるわけね。それから漁業に出て魚を獲ってきて売るとかね、食べることにはそれほど事欠かないし、ぜんぜん財産がなければ、いっぱいある家に手伝いに行くとか、そうして暮らしたんです。兄の子どもが、今では「おばさん1人だ」っていうわけでね、ホタテ養殖をやってるから、私のところにホタテを持って来てくれたり、いろんなものを持って、この急な坂を上がってきます。巡り巡ってねえ。
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