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ワカメ養殖を始めたのは私たち一番早いのね。その頃私たちの漁協の、いま青年部っていうけども、その頃は研究会というような名前で、私たち年代から下のほうの人たちで会をつくって、ワカメの養殖の始まりをつくって今に至っている。もとはワカメも今のように水平式でやんないで、垂下式っていう、これで3つだから、15尺=5mぐらいの長めの縄にワカメの種さはさんで、下げるやり方でした。
そう、今の牡蠣みたい。だけど垂下式は上のほうは良いけんども、下のほうが老化が早くて、製品が悪くなるんだね。それで、今のような水平式に変わったの。当時は、津波なんかもないから、縄で撚ったのを、窯作って、長持ちするようにコールタールで煮て染めて、3年も4年も使ったんだね。
そういうのは誰からの教育もなかったんだけっども、われわれ生産者が、みんなで寄って研究して、良いものを採るには、やっぱりそういう風に変えたほうがいいんでねえかって、自然にそうなって行ったんだね。
ワカメのタネのはさみこみは10月過ぎから11月。ワカメの出荷が早い人だと、2月末にはワカメは終わってもう漁に出る。ワカメは4月の終わりまで残ると原草が良くても、製品にすると、色が悪くて赤く変色する率が高いんだ。まず遅くても4月の20日までには刈り取って終了しろと、いうようなことだね。生産者だから全部売りたいのはヤマヤマだけんど、売れるからっていつまでもやってると、自分の首くくるんだよっつうこと。
今年やって、来年やめるんだらば、それでもいいんだけっども、毎年やる漁業だから、毎年お金が入るようなことも考えなくてはならねえ。値段と比べて量をいっぱい出すと次の年から在庫残ってたなんだってほら、値段を叩かれるのもある。そうすると売りたいからって、最後まで、投げるようなワカメまで売るようになる。するとその次の年が果たしてどのようになるかね。
だからやっぱり漁協あたりでも、がつっと各漁協と組んでね、何月何日以降のは絶対市場に出させない、違反したら、漁業権まで没収するぐらいの覚悟で規制しなかったらだめだで。漁協によっては、5月までワカメを買い上げたところもあるから、それじゃダメだっていうのね。誰でも水揚げできればいいかと思って、先々まで考えてんだかなんだか。ここのワカメはブランド品だからね。歯ごたえがあって。軟いどろどろのワカメは、私ら食べても美味しくねえもんね。
震災後はボランティアの人たちがワカメの養殖の手伝いに来たけど、一番遠くからここさ来たのは、神戸か大阪で、中学校の先生だっていうの。ワカメって袋さ入っているのしか見たことないっていうから、3m以上のワカメあったのを見せたの。メカブのところから付いてるワカメ。船さ乗せてって、実際に伸びてるところ、何回も連れてって見せると、へーと驚くんだ。ワカメはこう上さ、伸びてるもんだと思ってたって。お土産にやったら、味がいいんで、送ってほしいと電話やら手紙やらくる。
スーパーで買うときはどういうワカメ買ってますか? ボランティアに来るような人に話してやったんだけども、スーパーなどでボイル加工した塩蔵ワカメ買う時は、塩まぶさってないのを買いなさいっていうの教えてやったんです。塩いっぱいからまっているのは、塩の目方が勝って、ワカメそのものの重量が少ない。私たち生産者が出すときは、しっかり乾燥させて、水が1滴も出ない、かんなくずみたいな状態で出してやるんですよ。それを今度は庶民の人が出すときは、塩水をまぶして出す。
実は私たちが避難所に行ったのは、3月11日から3日間だけでした。あまり長くいられなかったんです。
震災後に、避難所では困っている人たちがいるからと、自主的にウチから毛布なんかを避難所へ持って行ってたんです。自分たちの分も出しました。けど、自分がいざ避難所の中へ入ってお世話になろうとすると、「自分の毛布くらいは自分で持って来い」と言う人もいました。だって全部出してしまって、自分たちの分なんかもう無いのに。誤解なんです。でも、そういう風に言われているのを回りの人が聞いて、「だったらこれを使ってください」って分けてくれた。それでも、長くはいられなかったね。
いま避難所にいる人たちも大変だと思いますよ、いろんなプレッシャーや人間関係のストレスなどで。何が辛いって、これが一番辛いんじゃないですかね。トイレだって夜遅くなっても戸外の寂しい場所に行かなきゃいけない。ウチの奴なんか、もう年だから誰も襲うような奴はいないと思うけど、でも、怖いから、懐中電灯ともしながらついて行ってやらないと。そういう思いをしながら、あの避難所に長くはいられないですね。
ボランティアさんが支援物資を持って来るでしょう、そうすると、物資の奪い合いじゃないけど、「あれを持って行っちゃった」とか「みんなにあれを渡さなかった」とかいう話になる。ボランティア的なことをやろうとすると、「なんで余計なことするの?」と言われるし、炊き出しをすると、かえって非難されたりして。やろうとする方は親身になってやっても、それがあだになってしまう場合があるわけ。信じられませんでした。
最初に来たボランティアさんに対しても「あとでお金を取られるんじゃないか」って、そういう相談を受けたことがありました。「そんなことないんだから、もし心配だったら、来た時に聞いて、有償だったら受け取らなければいいんじゃないか」って言ったんですよ。それでその人は持ってきてくれた人と笑いながら話をして、結局貰うことができたんだけど、それに慣れてきてしまうと、貰うことが当たり前になってしまうのね。要らないものまで貰う、なんでも貰うの。
それってちょっと違うんじゃないの?と思いましたね。もっと困っている人がいっぱいいるから、そういう人たちに分けなくちゃいけないんですよ。だから、ウチでいったん貰って、ほかの人にも渡そうっていうことになって、ボランティアさんを中継して、そこが直接持っていけないところの人に、ウチに取りに来てもらうようにして渡していたのね。ウチから持って行ってもらうのであれば問題ないということで。今もしているんだけどね。
そういうのを見られると、結局、全部ウチがもらっているんだろとひがむ人がいたりする。普段、そんなことはないのにね。直接文句を言われることもあるし、間接的に態度で示してくることもある。昨日、あんなにコミュニケーションうまくいっていたのに、次の日顔を合わせたら顔をフンっとされて。こっちは下町育ちだから、挨拶ぐらいすれば良いじゃないかって思ったこともありました。
普通の時は、本当によくしてくれるんだけど、震災がきっかけで、ガラッと変わっちゃう人も中にはいるのね。そういうのが本当に辛かったね。
「もらい湯」(被災地支援のボランティアに自宅のお風呂を使わせていただくこと)を始めたきっかけは、何人かの人には話したんですが、親戚が南三陸にいるし、まだ見つからない人もいるんです。それにやっぱり南三陸は隣町だし、なんかやらなきゃなんないなかと思いながらも、自分の仕事が再開すれば、そっちに行かなきゃなんないんです。だからボランティアのみなさんのように、ほんとは毎日支援に行きたいんだけど、そういうわけにもいかなかった。無事なところは無事なりにちゃんと通常通り動かなければならないんです。
そういう中でなにか出来ることはないか、と思っていた矢先に、4月3日、南三陸町(志津川)の人たちが避難してきて、手伝いにいったわけです。荷物を運んだりしてね。
一段落して、「そういえばここにボランティアの人来てたな」と思ったんです。実際に、我々地元の人間も「ボランティアと言っても、何しに来てるかわかんない」という感じだったのね。私は割と人前に立つときにあんまり物怖じしない性格なので、「こんにちは、ちょと見学させてください」って突然行って、RQの総務の安達さんにお願いして「地元の人間なんですが見学させてもらっていいですか?」と見させてもらいました。
「どういうゆうことをやっているんですか?」と聞いてみると、「物資の配送であるとか、泥出しもあるんですよ」って言ったので、「泥出しするんなら大変でしょう、汗を流す所はあるんですか?」と聞いたら「社協の方に時間限定でありますが、他の人はウェットティッシュで拭いて終わりです」。「じゃあ、うちの風呂は小さくて2人や3人なんだけど、汗ぐらいは流せるので入りに来ませんか」と、最初は信用されなかったですよ。「いつから来ますか?」と言ったら「明日からいいですか?」と。
最初は「冗談でしょう」みたいな感じで、信用されなくて「いやいや、ほんとにほんとに(来てもらっていいんです)」って。「え、いつからですか?」「明日からでもいいですよ」って言ってしまった。そのとき一緒に来ていた佐藤さんと2人で相談して、2軒でもらい湯をやるかって言ったんだけど、佐藤さんは明日からと聞くと、「うぁーちょっと待って、うちはだめだ。掃除してから」というので、そんな訳で、我が家が第1号になりました。
地域のキーワード:RQ市民災害救援センター, もらい湯, ボランティア
小鯖に40年も50年も住んでて思うのは、私たちも家を流されたったら、やっぱり、ここには住みたくないですよね。最低でも気仙沼。病院のそば。そういうところを選びますよ。いくら子どもが仙台にいるたって、仙台まではとても・・。私たちの水に合わないから。この津波のあとも、やっぱり、ずいぶん多くの方が唐桑からも離れるんでないですかね。
昔のように子どもがあれば必ず、その子どもが跡継ぎしたもんだが、今はそうじゃないから、結局年老いた親が1人暮らしか2人暮らしになるわけだ。だから、まず、実際にその身になんないから、まだここにいるんだが、家が流されたったら、たぶんここにいないとおもいますよ。どうせ暮らすんだったら、お店が近いとか、病気になってもお医者さんに走って行けるとかね。何十年住んでなんでいまさら、って言われるべが、やっぱりねえ。
だからボランティアの人たちは、唐桑にしてみればなんてありがたい、こんな人の嫌がる瓦礫とかゴミとか、一生懸命汗水流して働いてくれるなんて、なんてありがたいんだろう。ほんとに感謝、感謝です。もしこんなことがどっかであったら、唐桑の人たちは進んで行くような人たちがほんとにあるんだろうかって。ないんでないかなあって。ボランティアの若い人たちに「お婆ちゃん、お婆ちゃん」って言われると、「なんとこの孫たちは・・」ってね(笑)。
ほんと、こんな津波なんてね、誰も予想しなかった。
津波のあった日は、お爺さんが気仙沼市立病院に入院してたんで、息子と見舞いに行って。「病院の食堂でお昼食べてんか」「そうしたほうがいいよね」って、お昼食べて、そしてジャスコで買い物して、それで帰って行ったの。
そしたら、安波(あんば)トンネル潜ったところで地震に遭ったんです。すんごく揺れてハンドルとられて大変だったの。とにかく動けなくなるくらい揺れたから、そして、みな信号が消えてしまったし、「あっ! この地震はただの地震で無い、津波が来っから、高台だ!」って私が騒いだんです。
車が前さも繋がるし、後ろもずっと繋がってしまったけれど、なんとか動いてね、そして高台の高校(東稜高校かと思われる)まで上がって行って、今晩の食べるおかず、パンだのいろいろ買ってたから、そんなの食べて、車の中で一晩過ごしたんです。
次の日、「唐桑に帰りたいんであれば、誘導して上げますよ」って方がいたんです。「もう一晩高校の体育館でお世話になるか・・」って言ってたんだが、そういう人が現れたもんで、「どうしても帰りたいな」って思ったんです。飲んでる薬もないし、「お願いします」って、誘導する車とうちの車ともう1台御崎さんのお姉ちゃんと3台繋がって、やっとのことで近所まで来たのね。それでも瓦礫があって家まで来れないから、親類の家で2晩目泊まって。「ごはんまだ食べないで来たの? おにぎり作ってたから」ってごちそうになって、お茶も貰って、「立派な布団でなくたっていいよ、その辺にあった布団でいいよ」って2晩目泊めて貰ったんです。
3日目にようやくここに来た。坂道は上がるに上がられないから、山の方回って、這って上がってきたの。そしたら、コップ1個も倒れてなかった。「もう、ガラスも何もかも落ちてんでねえか」って覚悟して来たけど、何にも壊れてない。あとで見たらお爺さんがこけしのような飾りものを、みんな倒れないように留めてたの。それでも茶碗も何もひとつも倒れてない。ここ、地盤が硬いんですよ。なんか、とんがった石が入り組んでいるところなのね、ここは。
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