文字サイズ |
今は養殖の中心はワカメだ。ホタテの場合は、大きい船ないとできない。重いものぶら下げてるから、大きくないと網を巻き上げた時船が横向いてしまう。ほんとは今年の5月ごろできるって言ってたんだけど、今造船中なんだ。1月に三重のヤマハで作った船体がこっちに来て、それを唐桑でいろんな機械や、網揚げる道具をつけたり、さまざまな準備をすんの。そのことを「艤装(ぎそう)」っていうの。なんで唐桑って? 志津川の造船所で作れば、そのままやってもらっていいんだけど。いっぱいでなかなか、やれないから(船はその後、無事完成し、進水式を終えた)。
船を作るときには、先ず申請する。漁協の方さ直接やってもいいし、志津川の造船所さ先に申し込んで「作りますよ」となったら、あと、漁協に申請する。ただ今度の場合、志津川の造船所が壊れてしまったから、漁協の方で動力船を作るは申請順だって言われて、うちの孫が一番先に申し込んだんだ。去年のホタテに間に合うようにできる予定だったんだけど、今年になってやっと。だから去年のホタテやるのに、となり部落の船を借りたのね。だからいっぱいやれる予定で組んだんだけど、3分の2ぐらいになってしまった。
ホタテ養殖のタネは、こんな稚貝から採ってんだ。手数ばり(ばかり)くらってはわかんないから、まあ、半数は北海道からこのぐらいの買うんだね、高いけっども。半生貝だね。
タネばもらって、網さ中さ入れて、その時期来(く)っと、水温と比べて海さ入れて、そいつが付着して、最初はあの、ほんとの泡が付くぐらいになる。それがみるみるうちに、大きくなって。それを一回夏場に獲って、小さい目の「ネット」っていう網さ入れて育てて、大きめのを選んで別なネットさ入れて、大きく成長さすんだけども。だからいっぱい材料もいるし、ある程度大きくなんねえと、耳吊りすんのに繋がれねえから。
父はいわゆる半農半漁で、小漁(こりょう)でした。だいたい私の生まれた所はね、小漁が専門でね。私たちの孫の代くらいからかな、おっきな船にのったのは。そのころは船も機械ではなかったから、ちっちゃい手漕ぎ船で漁に出ていました。獲りがきの(獲ったばかりの)魚を食べて育ったのね。そのころは、小漁をするどこの家でも、大きい魚とか、大きいアワビはね、漁協に売りに出して、売れないようなちっちゃいのを家で食べたの。10人全員でご飯を食べる時も、自分の分の骨は「あんたはちっちゃいから」なんていって取ってはもらえないの。みんな同じように自分で食べるんです。そして私も一生懸命、もくもく食べたんじゃない?(笑) だから今でも骨取って食べる小魚が大好きなの。
お米は家では半年買わなくても良いくらい、自分の家の田んぼから収穫していました。自分の家で食べるための田んぼもあれば、畑もありました。そのころはみんなそんなでした。
兄は学校が終わる(卒業する)までは小漁をしてたんだが、あと、学校終わってからは遠洋漁業に出てね。マグロとか、カツオ船とか。家を離れているのは、昔はそんなに長くなくて、3カ月とかね。あんまり遠くに行く漁船には乗んないで、まず、普通に手伝ったりしてね。兄は家督を残して結婚したら家を出たので、1人抜け、2人抜けってだんだん家にいる人数は少なくなって行って。
2番目の兄は婿養子に行ってね、子どもが2人あったの。それがね、宮城県の主導する宮城丸(水産学校の教育用の船)に普通の船員として乗って行ってね、戦死したの。米軍の魚雷が当たって、「轟沈」でした。5分以内に沈めば「轟沈」っていうんだってね。昭和19(1944)年の話です。いま、自分が結婚して、婿養子に行った先の義姉が30代で未亡人になったが、かわいそうだったなと思ったね。それで、義姉のところに、着る物とかなんとか、いろんなものを送ったのを覚えてるね。
ただ、その頃は夫が死んでも、田があり、畑があり、自分の家で食べるくらいは働けるわけね。それから漁業に出て魚を獲ってきて売るとかね、食べることにはそれほど事欠かないし、ぜんぜん財産がなければ、いっぱいある家に手伝いに行くとか、そうして暮らしたんです。兄の子どもが、今では「おばさん1人だ」っていうわけでね、ホタテ養殖をやってるから、私のところにホタテを持って来てくれたり、いろんなものを持って、この急な坂を上がってきます。巡り巡ってねえ。
Please use the navigation to move within this section.