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テレビは部落に2~3台という時代です。親戚の家にテレビを週に1回か2回見に行って、覚えているのは、藤田まこと、白木みのるの出ていた「てなもんや三度傘」、山城新伍の出ていた「白馬童子」とかでしたね。自分の家でテレビを買ったのは、昭和39(1964)年の東京オリンピックのあった年、小学校6年の時でした。1月の売り出しで買ったんです。
お袋は次の日の(野菜売りの)準備をやって時代劇を見ていたな。子どもたちも引きずられて一緒に見てました。
当時は「巨人、大鵬、卵焼き」といわれた時代で、野球は巨人、相撲は大鵬、おかずのいいのは卵焼きってね。
学校での遊びは小学校4年生ぐらいまでは相撲しかありませんでした。当時は柏鳳(はくほう)時代で大鵬(たいほう)、柏戸(かしわど)など自分の好きな人の名前を勝手に名乗ったんです。私は大関の北葉山。うっちゃりが得意な力士でね(笑)。幼馴染の佐藤仁町長は初代豊山だったんですよ。昔の話をすると、今でもその話が出てきますね。
学校の先生も「怪我すると危ないから」って砂場を作ってくれ、家から藁を持ってきて土俵を作って、そこで相撲を取りました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
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