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みなさんに、地域のことにも目を向けてほしいと言いましたが、このあたりは歴史的にも興味深いことがあります。たとえば、「隠れキリシタン」がいたことで有名なのです。「東北の長崎」と呼ばれるくらいの弾圧があったのです。
伊達政宗は(交易を)世界に開く目的で、サン・ファン・バウテスタ号を造営、支倉常長をリーダーとしてローマに派遣し、政宗の親書を持って交易を願い出ましたが、徳川の時代になって鎖国が始まっており、常長がローマから帰ってきたときには、交易の交渉をしに行ったのに、輸出入ができなくなっていました。
徳川の時代に入って、製鉄が盛んになりました。たたら焼、銅や製鉄といったものが、朝鮮から山口に入っていました。製鉄の技術者が、千松大八郎・小八郎兄弟を備中国(岡山県)から呼んで来ました。彼らは「たたら式」と呼ばれる西洋式の製鉄の技術者であると同時にキリシタンだったのです。製鉄という厳しい労働を始める前には心を安らかにする祈りをささげなければなりません。それで、製鉄の広がりと同時に一気にキリシタンが増えました。
今度は伊達政宗が治山・治水を行った際には、長崎の五島列島からつれてきた後藤寿庵を技術者として、福原地方の開発(灌漑事業)をさせました。伊達藩が開発をすると、その力を恐れる幕府がキリシタンの弾圧をします。後藤寿庵は山を逃れて来て、この地で捕えられて、処刑されたといわれています。
一方、米川では製鉄(労働者)のキリシタンが山の中で隠れて祈りを捧げていました。
この地では、改宗を迫られて、それでも信仰を捨てなかった120人もの信者が張り付けにされて処刑されたり、踏み絵した姿で会葬されたりしたのです。それでも(信仰を捨てずに)生きのびるには、裏にひそかに十字架を彫った仏像を持つことしかありませんでした。そういう遺品は、1600年ぐらいからのものが残っています。
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