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父は明治19(1886)年に私同様、鱒淵に生まれましたが、16~7歳で三井物産に入社し、カナダに渡りました。
というのも、三井物産は宮城県の地場産業として栄えていた養蚕で、カナダと生糸の取引をしていたからです。カナダでの父は、ドイツ人の家庭に下宿し、夜学に通いながら昼間は働くという生活をして、英語、ドイツ語を身に着け、さらにフランス語など5カ国語を話せるようになったといいます。父はカナダと日本の二重国籍を持っていました。カナダで洗礼を受け、洗礼名カルロフというクリスチャンになっていたのですが、その父の形見はロザリオです。米川の教会の復興に尽力した小林司教から昭和30年頃に戴いたもので、それも今は私の手もとにあり大切にしています。
日露戦争が終わった明治38年、田舎は過疎化して農村は疲弊しており、この地域一帯は貧しかったのです。というのも、戦争中に国益を上げることを重視し、都市化が進行して子供も戦争にとられたからでした。
ここでリーダーとして立ち上がったのが及川甚三郎なのです。及川姓を名乗っていますが、実は小野寺家から養子にいった人(小野寺重郎治の三男として米川字軽米に生誕)でした。小野寺家は当時、北上川を船で渡って、石巻、仙台、東京へと生糸や薪を売りさばいていた豪商でした。つまり、及川甚三郎もその商人の血を色濃く受け継いでいたのです。
甚三郎は、カナダのバンクーバーを流れるフレーザー川へ、大量のサケが遡ぼる、しかし白人は卵を食べないからそれが捨てられる、ということを噂で聞きつけました。彼はこれを塩漬けに加工して商売できないかと思い、実際に明治31年にカナダに噂を確かめに行きました。それは本当のことだったのです。
甚三郎は、サケの卵の塩漬けの加工をカナダで行い、成功しました。成功した要因のひとつは、東北地方からカナダへの、大規模な日本人移民が来てくれたことでした。当時は、移民法により大人数で移民することが許されませんでした。そこで、彼は石巻から密航させて人々をカナダに移動させたということです。このことは、新田次郎の著書「密航船水安丸」にも書いてありますが、私もその取材の協力をしました。
太平洋戦争が起こると、カナダにいた当時の移民の人たちは強制送還されるか、あるいはカナダの山奥の仮設住宅みたいなところに強制収容されるかのどちらかになりました。今いる移民の人たちは強制収容された(辛い時代を耐えて)残った人たちで、今はその子孫がカナダで生活しているのです。
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