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船員は3つに分かれるのね。若い人たちはご飯組。船首の方にいるのね。魚を捌いたりだの、いろんなことやるから。船首側に寝室があるの。あとは、漁労長や船長さんたちがいる舵取る機関場、年寄りのいる船尾(トモ)と3つね。船尾の人たちの役目は、竿出してカツオを釣るだけ。
ご飯炊きはね、学校上がりの見習いみたいな人3人位でやんの。ご飯組ね。釜大きいから、学校上がりの若い船員では、その頃鉄の釜だから重いんだ。その上にコック長がいて、今日は何作るとか言って。何も大したもんは作んないよ。人数が多いから野菜だってそんなに入らない。私たちがカツオ船乗った頃にはアルミの食器でね、それにおつゆが入ってくると、おつゆの身がじゃがいも1個さ、玉ねぎ2つ位入って終わり。魚はつゆには入れないで、刺身に作る。ご飯はみんな、船上。
船首の方にいる人たちは、表船頭が箸取らないうちは誰も食べない。ご飯炊きから上がった(役目から解放された)人も、「胴回り」と言ってまだ水夫の見習いのようもんなんだ。「胴回り」が、お鉢に入れて表船頭のところに持ってきて、「ご飯用意できました」といって表船頭が箸取って、初めて食べる。カツオ船では、厳しい規律のない船なんかないのっさ。団体生活だから規律が無いとやってけないのさ。
無線長と船長と漁労長と3人くらいで操舵室にいる。一番偉いのが船頭(漁労長)。船頭は、号令掛けて、こっちさ行けって、魚を獲る分の総支配人だから。次が船長。船長っていうのは位置を把握したり、船を操るのが全部ね。機関士は機関場で、機関長入れて5人くらいでやるんだね。機関長の下に2番機関士。機関員の一番の頭。あと機関員がその船によって3人か5人か。
表船頭、表にも船頭さんがいて、こっちの若い人たちを仕切ってる。表船頭が1番舳先(へさき)で竿をだして釣る。その他に二番口っつうのがあって、この人たちが舳先の方にいる。その下で釣るのが二番口がね。2~3人。三番口ていうのもある。水夫のことを俗称でカゴって呼ぶんだね。今は双眼鏡とかで見るんだけど、私たちの時はマストの上にカゴがあって、海の魚をほら見てね、二番口、三番口の人が舳先さ上がって魚を探索するだよ。船尾の方には船頭はいないの。
ここさ上がって、まっすぐ行く時は「ようそろ~っ」って言うんだ。誰よりも先に見つけて、その見つけた魚がいっぱい釣れた場合に、そのカゴは「はいっ」と船頭から報償を貰えたものなのさ。若い頃は自分も目が最高にいい頃だったから、他の人間に負けないくらい見つけて報償を貰ったんだ。鳥がいてその下に群れが居るのがわかることもあるし、鳥はいなくても、さざ波たてて群れだけでわかることもある。鳥は遠くの方からもざっと見えるから、一方方向に飛んでる鳥は駄目で、こう行ったり来たり回ってるところの下には群れがいる。群れそのものはあまり遠くからだと見えないから。その時の天候によって、さざ波たてているのでわかる。群れっていうのは、先頭に向かって波を立てて動くから。
月給よりも、カツオ船なんかは水揚げの歩合制になっているから、そういうのひっくるめて「あたり金」って呼ぶんだけど、給料の他に、漁の終わりの時に別個にそれが貰える。
寝る場所は押入れみたいに2段になってて、船の幅だけある。水槽(魚槽)や、機関室があって。さらにエサのイワシの入った船倉が4個か5個くらいある。上から見ると真ん中に大きい餌を入れる船倉があって、脇の方に氷全部。氷を一番の底に入れて、そいつの上さ魚入れて。その時は全部角の氷をデッキの上さ砕いてね。
カツオ船さ乗ったか乗らないかっていうのはすぐわかる。こういう船さ乗らないで、別なトロール船とかいろんな船乗ったら、こういう規律なんてほとんどない。ほらカツオ船を3年も乗った子どもだと規律はしっかりわきまえてるし、言葉つきもいい。どこの船さいっても心配ないだろうと思う。50人も乗っているんだから、5人か7人位の乗ってるような船でするような勝手気まましたら、統制取れないから。でも今は、変わってから、どうなんだろうね。
カツオ船には、7年ぐらい乗ったね。カツオ船は年中ではないんだね。春から夏に近い時から南の方さ行って、だんだん日本に近づいて来て10月末までやって、そのままの格好でサンマ漁に行ったね。
カツオは群れで、獲れるときは船で10艘も20艘も満船に積むくらい。かと思うと、群れがいてもエサのイワシを食わないのは1匹も食わないからね。食い気のないのはもう、カツオが何万匹いても食わないのね。全然獲れない。色が紫色か赤みを帯びて見えるのは飛びついてくる。青くなって普通のカツオみたいに泳いでるのは食い気ない。
ああいうとこで実際にカツオを見ると、腹に何も入ってないカツオはエサ食わないんだね。妙なもんで。腹、解剖してみるとね、胃袋にエサなんか入ってないんです。我々人間が考えると、胃袋にモノがないといっぱい食いたいようなもんだけど、逆なんだね。だから釣ったカツオ見ると、もう胃袋破裂するくらい食ってんだ。私たちがカツオ釣りやってる時は、1本づつ手で掴んだんです。釣れるカツオは口からよだれダラダラ流してるんだ。トロロ流したときみたいに。そういう魚は胃袋に破裂するくらいイワシ食ってんだ。そういう時は、50人で5回もやったら、もう5000貫も6000貫も釣ったよ(1貫は約4㎏)。だけど、餌がなくなれば、漁が半分でも帰ってこねば。イワシを船漕に水張って入れてるから、餌がなくなると帰って来る。カツオ船はでも長くて10日くらい。徐々に、ここの魚は食いつきがいいとか偵察しながら漁をするんだ。
私も大きくなる前は、このへんでは「小漁(こりょう)」っていうんだけども、沿岸でアワビ獲ったりウニ獲ったり、あといろんな漁、延縄(はえなわ)やったり、ある程度成人してから、カツオ船さ、乗ったんだわ。カツオ釣り。神奈川県のむこう、最初は三崎、あと静岡の焼津(やいず)まで行きましたね。
なにかね、家が貧しくなければ、なんとか別な方に向いたんだけども、なんか親が子だくさんの貧乏家庭だから、「学校卒業したら、早く船さ乗せなくてはワカンねえ(だめだ)」っていうような、そんな恰好で、尋常小学校を卒業したらすぐ、15歳でカツオ船に乗ったんだね。やっぱり家が貧しい、今だら(だったら)いろんな制度もあるから、生活が苦しくたって、自分の進みたいところさ、進めばいいんだどけっども、その頃は生活すんのにやっとだから、親たちも「なに、早く学校卒業して、船さやればすぐにお金入ってくる」というような恰好だからね。私たちも自分なりに、「学校卒業したら海さ出るんだ、男は」と、そういう頭だったから。
だから、卒業してすぐ漁に行った子が学校の先生さ、「先生、このぐらい(給料)取って来たぞ」という額が、先生の1年間の月給より高かった。そういう時代だから。
地域のキーワード:カツオ船
遠洋漁業といえば、私の舅は遠洋漁業で船頭をしていました。舅は、家内の父ですが、私の伯父なんです。私の父が家内の父の弟です。私たちは、いとこ結婚ですね。それで、この舅が、漁業者として佐藤栄作が総理大臣の時代に勲七等を頂いています。舅は、この辺で名前を知らない人がいないんだ。神奈川県の三崎に行っても名前が知れているくらいの漁の名人でした。
漁にかけては本当に名人で、漁業者としての叙勲では早いほうだと思います。その舅は、戦時中はカツオ船に油を載せて南方へ船団を組んで運んだと聞いています。昔はタンカーなんていうのがないから、そうやって、油を運んだそうです。漁船っていうのは、船長よりも船頭のほうが偉いんだよ。船を持っている船長が偉いと思うでしょう?漁船の場合は違うの。船頭というのが一番の権限者で、そういう親父でした。
私は遠洋漁業には行きませんでした。息子は、無線通信士ですから、船頭は舅だけですね。
父はいわゆる半農半漁で、小漁(こりょう)でした。だいたい私の生まれた所はね、小漁が専門でね。私たちの孫の代くらいからかな、おっきな船にのったのは。そのころは船も機械ではなかったから、ちっちゃい手漕ぎ船で漁に出ていました。獲りがきの(獲ったばかりの)魚を食べて育ったのね。そのころは、小漁をするどこの家でも、大きい魚とか、大きいアワビはね、漁協に売りに出して、売れないようなちっちゃいのを家で食べたの。10人全員でご飯を食べる時も、自分の分の骨は「あんたはちっちゃいから」なんていって取ってはもらえないの。みんな同じように自分で食べるんです。そして私も一生懸命、もくもく食べたんじゃない?(笑) だから今でも骨取って食べる小魚が大好きなの。
お米は家では半年買わなくても良いくらい、自分の家の田んぼから収穫していました。自分の家で食べるための田んぼもあれば、畑もありました。そのころはみんなそんなでした。
兄は学校が終わる(卒業する)までは小漁をしてたんだが、あと、学校終わってからは遠洋漁業に出てね。マグロとか、カツオ船とか。家を離れているのは、昔はそんなに長くなくて、3カ月とかね。あんまり遠くに行く漁船には乗んないで、まず、普通に手伝ったりしてね。兄は家督を残して結婚したら家を出たので、1人抜け、2人抜けってだんだん家にいる人数は少なくなって行って。
2番目の兄は婿養子に行ってね、子どもが2人あったの。それがね、宮城県の主導する宮城丸(水産学校の教育用の船)に普通の船員として乗って行ってね、戦死したの。米軍の魚雷が当たって、「轟沈」でした。5分以内に沈めば「轟沈」っていうんだってね。昭和19(1944)年の話です。いま、自分が結婚して、婿養子に行った先の義姉が30代で未亡人になったが、かわいそうだったなと思ったね。それで、義姉のところに、着る物とかなんとか、いろんなものを送ったのを覚えてるね。
ただ、その頃は夫が死んでも、田があり、畑があり、自分の家で食べるくらいは働けるわけね。それから漁業に出て魚を獲ってきて売るとかね、食べることにはそれほど事欠かないし、ぜんぜん財産がなければ、いっぱいある家に手伝いに行くとか、そうして暮らしたんです。兄の子どもが、今では「おばさん1人だ」っていうわけでね、ホタテ養殖をやってるから、私のところにホタテを持って来てくれたり、いろんなものを持って、この急な坂を上がってきます。巡り巡ってねえ。
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