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私たちはいろんな避難所の中で一番恵まれた避難所だったと思います。
RQの皆さんが朝と夕にやっている班長会議に必ず出てきてくれて、"相談する人もなく即断する"ということをずっとやっていた私にとっては、常に"聞き役になってアドバイスしてもらった"ということが、大きな支えになってきたんです。
皆さんがいなかったら、自分もうまくコミュニティの人々をまとめることができなかったのではないかなと思います。愚痴を聞いてもらって、自分の息子ほどの年齢の人たちに支えられて、乗り切れたんです。お茶っこや足湯で息抜きの場もできました。
100人以上の人が共同生活を送れば当然面白くないことがあるもんですが、息抜きの場があって、そういうことにも耐えていくことができました。ずっと以前から付き合いがあったように思えたし、今こうやってまとまって仮設住宅に来ることができたのは皆さんのおかげ。本当に苦しい中、助けられました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
地域のキーワード:RQ市民災害救援センター, お茶っこ, 中瀬町, 志津川, 足湯
小泉に「ひまわり温泉」って言って、お風呂や、シャワー、お茶っこ、夜は少しお酒も出して人の話を聞いたり励ましたり、一生懸命やってくれていたおじさんがいたの。で、ウチの3人の孫達は、皆そのひまわりおじさんの所へ行って、お手伝いをしていたの。
朝早く5時頃起きて、下の瓦礫へ行って、瓦礫を持ってきてストーブを点けて、お湯を沸かして。まだ寒かったから女の人たちが炊事をする時に冷たいでしょう? 湧き水を汲んで、ストーブ3つでお湯が沸くように準備してました。自分たちも服がないのに、汚くなって擦り切れるまで瓦礫を運んでね。
成人した男の孫は、会社から理事長さんが来てくれて、「会社が無くなったから」と話されて一度は会社をクビになりました。それで他にすることもないから、一生懸命ひまわりおじさんの手伝いをしてね、夜お酒を出す時も、自分は飲まないけど、お手伝いはしていたの。
そうしたら、1週間後にもう一度理事長さんが訪ねてきて、「どうしても、おめぇのことクビにしたくないから、福島に出張してくれ」って言われたの。福島って、原発だよね?
「出張してくれ、悪いけど・・・」って頼まれて、孫も少し怖いとは思ったんだけど「使ってもらえるなら行きます」ってお返事したの。でも、行くと決まっても着る物も履く物も無い。中学生の孫が「ウチのあんちゃん、仕事で福島へ行くんだ」って、ひまわりおじさんに話したら、明日福島へ行くっていう晩に、大きな袋に、靴とTシャツと作業着上下と靴下、手袋、帽子と全部入って、それに団扇(うちわ)のでっかいのも入ってて、その団扇に「さとし、がんばれ! ひまわり爺より」って書いてあったの。本当に嬉しかったです。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
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