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軍隊の生活は命令通りに動く、牛馬と同じようなものでした。朝3時にたたき起こされて1日が始まります。それから「軍人勅諭」を暗唱します。これは軍隊にはいったら覚えなければなりませんでした。すべてを覚えられない人は、次の5箇条だけいっていました。
「一(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし」
「一 軍人は礼儀を正しくすべし」
「一 軍事は武勇を尚(とうと)ぶべし」
「一 軍人は信義を重んすべし」
「一 軍人は質素を旨とすべし」
そして、「我国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にぞある」と本文を学ぶのです。軍隊は天皇の統率したものでした。天皇は軍隊の最高峰に位置し、そのお顔を直接見た人はほとんどいない、連隊長でさえあったことがない存在でしたので、私たちは写真だけでしか知りませんでした。
それから毎日戦争の稽古です。青年学校と同じように、予科練隊から毎晩、伍長だの、下士官だのが来て銃剣を使って人殺しの練習をするのです。また少年兵は「ふんどし部隊」といって洗濯の当番があったり、雑用もしなければなりませんでした。
隊は日中戦争に参加して満州から、長沙、衡陽(現湖南省)、桂林、柳州、南寧(ナンネイ。現広西省)と、中国国内の各地を移動とし、遂にフランス領インドシナまで移動し、ドンモウ(ベトナム・ハノイ)の作戦に参加しました。そこで菊のご紋のタバコ1本を与えられました。つまり、これから中隊は決死隊として進軍するから、天皇陛下に賜ったこのタバコが最後の一服になるかもしれないという意味でした。天皇陛下の命令で行くのです。みんな殺されるのは嫌ですが、嫌だなどと言うことはできませんでした。
常に空腹で体力も落ちていて、熱帯マラリアにかかる者がいて高熱に苦しんでいても十分な手当てもできませんでした。中には、病院で頭をたかって(叩いて)もらったらよくなったといって元気になる人もいました。看護婦も夜も日も無く大変だったと思います。やがて隊の中から、選抜された10数名の兵隊が激戦地のスマトラなどに送られて行きました。そして彼らは2度と故郷の地を踏むことなく戦死したのです。
私は昭和7(1932)年11月23日、志津川町(現宮城県本吉郡南三陸町)戸倉(とぐら)に生まれました。実家は祖父母、両親と姉の6人家族でした。生まれてから今回の津波に遭うまで、ずっとその家で暮らしてきたのです。
戸倉は半農半漁の家が多く、漁業だけで生計を立てている家はだいたい3分の1、4割にもならなかったですね。
うちは農家で、お蚕(養蚕業)をやってたんですが、漁業権もありました。祖父は1メートルほどの長さのナラの木を砂浜に立てて、そこに付いた海苔を採っていたんです。私も志津川でタコが大釣りしていた頃は、アワビの開口にも行ったりしたんですが、昭和20年から30年代にかけて、漁業の進歩で定置網や船を使うようになってからは道具も揃えなくてはワガンねえ(できない)からってことで辞めましたね。
そんなふうで、戸倉地区は海に面した方(かた)でなければ、木炭や養蚕が仕事の主体でしたね。うちは蚕より他になかったですが、私は中学校に入った頃に木炭の仕事をやったこともありました。
父の名前は知(さとる)、母はかほるといいます。2人とも戸倉の出身で、母は、父よりひとつ年下で、横津(よこつ)商店という酒屋から嫁ぎましたが、昭和48(1973)年、412の年で子宮がんでこの世を去りました。祖父は名前を吉治(きちじ)といい、自慢のようなんですが、戸倉村で村会議員を3期12年務め、71歳で亡くなりました。祖母はなおといい、その頃では長命な方だと思いますが76歳まで生き長らえました。姉は知子と言いました。
父は、祖父の「これからは頭が良くなければだめだ」との方針で小牛田(こごた)農林を卒業しましたが、20歳になってすぐ、海南島に出征しました。すでに母と結婚しており、私が生れる昭和7(1932)年に戻ってきたんです。
私は昭和13(1938)年、戸倉村尋常小学校に入学しました。そして、小学校4年生になった昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争勃発の日にスマトラ島に向け、再び戦場へと旅立ちました。
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