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津波に流された日は、ちょうどマツモの開口日だったの。午前中はマツモを採りに海へ行っていました。それと、銀行から100万円を下ろしてあって、孫の車の保険をかけようと思っていました。
海から帰って来て、寒い日だったから、コーヒーを入れようとしていた時に地震が来ました。ワゴンで逃げたから、トラックも、せっかく採ったマツモも、100万円も、全部流されてしまいました。
鉄道の鉄橋があるところからちょっと手前に田んぼがあって、国道45号線の橋があるでしょ? その橋の下から津波が来たの。津波っていうのは、下がモジャモジャになってくるのね。1回目の津波が一直線になって来た時、私たちは幼稚園の上まで避難していました。そこから見ると、ナイアガラの滝みたいになって真っ白になってダーッて寄せてきたの。
でも、堤防もあるし水門もあるから大丈夫、ウチの手前は線路もあるんだから・・・って。そうしたら、そんな物は一つも役に立たない。水門もなにも、その上を越えて、線路も越えて、大きな波だったんだね。1回目で郵便局が流されました。
そうしたら次にウチのトラックが流れて、「あれ、なんだ?」って思ったら、ウチの船が流れて、その次の波が来たら、1度目の波で下が洗われてるから浮いたんだろうね。歩道を作って1年、立派な歩道だったんです。歩道は壊れないで、波がその歩道にバーンって当たってウチの2階の屋根を越えていったの。その勢いで、浮かされた格好になってウチも終わり。その波で小泉も全部終わり。
幼稚園に避難していたんだけど、ここも危ないから小学校へ行けってなって、小学校へ行けば中学へ行けって。もっと上へ上へって逃げました。今、上の方に家の残っている辺りまで逃げました。
中学へ戻ると、中学生の孫たちが地域ごとにプラカードを持って一生懸命やっていました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
まさか家が流されるなんて、思ってもみません。赤崎の方に1回目、2回目と津波が来て、3回目の津波と言うんでしょうか、その次の波が町まで入ってきて、その波で、ウチの脇の物置に入れてバイクとかがスポーンと出たんです。おばあちゃんのラクーター、息子が去年買った50ccのバイク、おじいちゃんのバイクも、ものの見事にスポーンと「あ、流れた」って感じでしたね。その後、鉄道の上から津波が落ちてきた。
テレビでも映してたよね? 高いところから落ちてくる力ってあるじゃないですか? その落ちる力と、45号線の橋と橋台の間から上がってくる水と両方で、ウチは家の基礎をベタコンって全部コンクリートで一つになっているやつだったから、そこから家がまるごと浮かされた感じになったんです。
「えっ? 家が浮かされた。流れてる」って。おじいちゃんもおばあちゃんも、「こういう時は泥棒が来るから家を見てなきゃ」って、「ふ〜ん」って見てたら、「あ、ウチの船、流れてきた」って。「きゃー」とか、そんな声を上げる余裕は無かったですね。
それで、私たちが見ている場所も危ないから、車を置いて逃げるように言われたんだけれど、親は足が痛いから、最後でいいから、とにかくみんなが行った後から車で行こうって、途中で歩けないおばあちゃんたちも拾って小学校まで行きました。それで、そこもダメってなって、もっと上の畑に車を置きました。
おばあちゃんたちは一度車を降りたんだけど、とても寒くていられないと思ったから、車の中に入ってもらって、私が外で様子を見ていました。あの時、軽トラだったらどうにもならなかったでしょうね。軽トラも土手の下の方にコロッと落ちたところまでは見ました。まだ見つからないですね。
地震の揺れの後、「津波来るかな?」って海を見に行ったんです。そうしたら、かなり水の引きが速いものだから、「こりゃあ、いかん」と。上の娘のところに女の子の孫が2人いて、1人が気仙沼の高等学校へ通っているので、その孫が心配で軽トラックに乗って迎えに行こうとしました。
途中で津波が来て、山に潜り込んで、潜るって言うより、登ってだな、それで、なんとかかんとか高校まで行ったんだけれど、孫はもう帰った後でわからなくて・・。それで諦めて帰ってくるのに45号線は全く使えないから、知っている山道をグルっと回って戻って来ました。
後から聞いたら、気仙沼のジャスコに居たそうです。そこが危ないからと、私たちの子どもが通った旧宮城県鼎が浦(かなえがうら)高等学校(現在の気仙沼高等学校)で一晩過ごして、それから今度は気仙沼西高校へ行ったということです。怪我がなくて良かったです。
下の助産師の娘は、車で流されたそうです。自分の仕事場に向かっている途中で流されて、連絡の取りようがなくて、携帯電話も何も効かなかったですからね、半分あきらめていました。
そうしたら、私が避難した場所がたまたま発電機を起こしてテレビを点けたら、ウチの娘がテレビに写ったんですよ。瓦礫の中で助けを求めている姿でした。「ああ、これ助かったんだな」って、一応安心しました。
3日後に帰って来て、体が半分以上黒くなっていました。一晩海の中で瓦礫に揉まれたからね。体格が良かったから、今度ばかりは「お前スタイル云々じゃなくて、体格良くて良かったな」って、家族で笑い話にすることができました。
娘が低学年の頃は小学校にプールが無かったんです。だから、小さい頃はウチの前の川で泳ぎ、そうして海でも泳いで泳ぎを覚えました。高学年になって小学校にプールができたら、水泳大会で優勝したり記録を持っていたりしていたのが、今回幸いしたかなぁと思います。
家には婆さん(奥様)1人が残っていました。家の裏の山を崩れないように固めていたセメントの壁に、避難する時用に階段を作ってあったので、その階段を登って逃げたそうです。それで女房は助かりました。登って逃げて山の上から見ていたら自分の家がパーっと流されていくから、手でこう捕まえたくなったそうです。
上の娘は、もう1人の孫が専門学校の卒業式だったので、仙台に行っていました。その仙台からの帰りに地震と津波です。石巻から柳津(やないづ)の近くまで来て、そこで津波をかわすことができたんですが、もう少し早い時間に帰り始めていたら、途中で津波に呑まれていたんじゃないかと思います。タイミングが良かったと思います。おかげ様で、家族全員助かることができました。
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