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息子さんのお話 私は津波の時は、隣のおばあちゃんを引っ張って逃げました。私の部落は孤立状態になってしまったんです。下の方は全滅です。自分の土地への建設は不可能だと言われています。具体的な話が、行政側がはっきりしていないから、説明会もやっていません。だから皆不安なんです。将来のことも考えられないし、宙ぶらりんなんです。この平成の森仮設は、大き過ぎます。知らない連中でまとまらないです。「住めば都」と言いますが、3カ月経ちますが、慣れないねぇ。狭いよねぇ。
私たち、地震のあった時はね、爺ちゃんがテレビを観て、「こんだ(今度は)、大変だー!!」「地震だから、婆ちゃん、出払え〜!!」って叫んでね。
外へ逃げたから、爺ちゃんは1人、私とお母さん(お嫁さん)は一緒、お父さん(息子さん)は1人で、3台で逃げました。センター(細浦地区で避難所に指定されていた細浦生活センター)さ、避難しないとね。
センターさ行ったら、「ここじゃ危ないから高台へ行け」って言われて、お寺さ行って、そしたらお寺もダメだから、ご先祖様のお墓の上で寝たのよ。今度の津波は、潮があんまり引けなかったね。そうして波が来たから、相当高いのね。みんな流されたから、こないだったらウチも流されるなぁって覚悟しました。
昭和35(1960)年チリ地震のとき、私がいたのは歌津だから、海は若干潮が引いたのは覚えてますよ。小さい頃でしたから、親たちが「海さ行くなよ」と言ってたのは記憶があります。志津川が大きな被害を受けたというのは後でわかった話だね。歌津地区はぜんぜん被害がなかったですから。
3月11日の震災当日、私は議会の最終日で登庁していました(※町役場本庁舎の2階が議場。防災庁舎は隣)。
実は、2日前の3月9日、津波騒動があったんです。高さが50センチで大したことなかったんですよ。2日後の11日の夕方2時45分ごろ、町長の議会閉会の最後の挨拶のときに地震がきたんです。すごい強さの、とんでもないのが来たなと思いました。みんなで机の下に隠れてました。
すぐに揺れが収まったんで、仲間と2〜3人で階段をすばやく駆け下りました。その時、普段議場にいるときに履いているサンダルを、皮靴に履き換えたのが本当に良かったんです。外に出ようとしたら、議会事務局の職員の女性が震えてしゃがんでいました。「いくべ、立て!」と手をつかんで引っ張り出しました。彼女を外に出して、「とにかく逃げろ」と言いました。
職員はかなりの数が庭にいたし、締め切りを控えた確定申告のお客さんもたくさんいましたから、そこに向かって「大きな津波が来るから逃げろ!!」って叫んだんです。後で、「あの時、あんたが逃げろって大きな声出さなかったら、助かってなかった」と、そこにいたお客さんたちに言われました。
自分が駐車場から車を出した時に、同僚の議員や、引っ張りだした女性がまだそこにいたので、「逃げろよ!」と言ってから逃げました。ところが、結果的にはその女性は津波に流されたのです。あの後、同僚の職員が誰も来ないからって、また庁舎の2階に上がったらしい。だから議会事務局の4人はみんな流されて死んでしまった。彼女は近くの駐車場に自分の車があって、まさかまた2階に上がって行こうとは夢にも思いませんでした。今考えると無理にでも車に乗せて走っていけば良かったと思うことがあります。お子さんのいる方で、写真を見て、言葉が出ませんでした。
ある職員などは津波に巻き込まれ、流されたのですが、目の前に畳が流れて来て、その畳にすがって助かったというのです。そのまま何キロも上流に押し流されて行って、今度は強い引き波で戻され、たまたま病院の4階だか3階だかにたどりついて、そこに人が一杯いて助けられたそうです。
今ではサーフィンしてきたんだな、なんて冗談にできますが、「その時はどうだった?」と様子を尋ねても「何にも覚えてない」と言っていました。またある人は、防災庁舎の上に逃げたけれど、津波の力がすごくて、掴まりきれずに流されてしまったのですが、どこかの鉄のパイプに足が挟まって止まり、助かったのです。生死の境は紙一重なんですね。それが何なのかはわかりません。
ここ南三陸は気仙沼と広域行政っていうのがあって、消防・救急を、共同でやってるわけです。震災後、そこに台湾の団体から3000万円の寄付が来たことがありました。なぜ台湾からわざわざ?と尋ねてみると、実は、防災無線で最後まで放送した遠藤美希さんの話を台湾の人が耳にして、心を動かされたので、防災面で使ってください、ということで寄付したというのです。その後、野田総理の所信表明演説でも彼女の名前が読み上げられましたね。
今にすれば、涙なくして語れない部分って言うのが沢山ありますよ。津波の前では、本当になんともならないことがあるのです。助けられず、目の前で沈んでいった方々も多くいるわけですよね。そのショックも大きいんです。実際にその場にいた方は、言葉には出しません。ほとんどの人は、巨大津波に対する経験がないもんだから。
防災庁舎で行方不明者が今も30数名で、町長などが生き延びたことで、「偉い人から高いところへ登ったのか」という声も聞こえますが、みなさん助かりたいって気持ちは同じだったって思います。防災庁舎がたまたまそんな場所にあって、波もすごかっただろうし。
歌津に帰るまでに津波が来ると思ったから、避難所になっている高台の慈恵園という老人養護施設に車を走らせました。慈恵園に着くと、雪が降っていました。
デイサービスを受けるのにお年寄りがたくさんいたので、職員が、寒いからと、その方たちに毛布かけたり布団掛けたりしていて、手伝っていました。寒いからにテント張ろうということになって、組み立て始めて、海のほうを何気なく見ると、「バリバリ」とか「ゴロゴロ」とか、最初雷かと思うような音が海からしてきました。黒い海から赤い煙がガーッと出た。
そして、こちらにだんだん迫って来たんです。火じゃなくて赤い煙が迫ってきたんですよ。屋根が浮いて来たから、「あ、これは津波がくる!! 逃げろ~!!」って叫びました。職員は「えっ? こっから逃げるんですか」なんて言ってる。
「そうだ、津波がここに来るから逃げろ」
そこから、職員もヘルパーさんも慈恵園から車いすを一斉出して何十人と移動を始めました。みなさんが非難して、自分も逃げ始めましたが、津波がどっちから来るかわからない。たまたまそこに行政区長さんがいたから「どこでもいいから逃げろよ」って声をかけました。そしたら、「山、山」って。裏山に逃げろってことですよ。杉山。
その山が足元が滑るわ、穴が一杯開いてるわで、だから皮靴に交換して良かったんです。あの山はサンダルなんかじゃ歩けない。目の前を女性職員が2人いたはずがいつのまにか1人が歩いていないんです。ぱっとみたら腰を抜かして、木の根っこに倒れてしまっている。「波来てんだから立て!」と言っても立てないのです。「死ぬぞ」っ馬鹿力を振り絞って立たせて逃げたんですよ。今でも腕が痛いんです。その女性がスリムでなかったもんだからさ、ちょっと重かったんだな(笑)。
ここでは、他のデイサービスの施設にも津波が来て多くのお年寄りが流されました。でも、高校生が結構助けたんです。手と手を繋げて助けたんですよ。先生は「危ないからやめなさい、やめなさい」と言うんですが、生徒たちはその現場を見てるから「助けねばならねえ」ってじっちゃん、ばっちゃんを助けようとしたんですね。それでお年寄りが何人も助かったわけです。
ところが、その方たちが今度は、低体温症でみるみる死んでいった。そのショックが生徒たちには大きかったんです。「助けたのに・・」って。で、目の前にその時の現場が見えるから、しばらく「学校に行きたくない」という子たちもいたのです。