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地震の揺れの後、「津波来るかな?」って海を見に行ったんです。そうしたら、かなり水の引きが速いものだから、「こりゃあ、いかん」と。上の娘のところに女の子の孫が2人いて、1人が気仙沼の高等学校へ通っているので、その孫が心配で軽トラックに乗って迎えに行こうとしました。
途中で津波が来て、山に潜り込んで、潜るって言うより、登ってだな、それで、なんとかかんとか高校まで行ったんだけれど、孫はもう帰った後でわからなくて・・。それで諦めて帰ってくるのに45号線は全く使えないから、知っている山道をグルっと回って戻って来ました。
後から聞いたら、気仙沼のジャスコに居たそうです。そこが危ないからと、私たちの子どもが通った旧宮城県鼎が浦(かなえがうら)高等学校(現在の気仙沼高等学校)で一晩過ごして、それから今度は気仙沼西高校へ行ったということです。怪我がなくて良かったです。
下の助産師の娘は、車で流されたそうです。自分の仕事場に向かっている途中で流されて、連絡の取りようがなくて、携帯電話も何も効かなかったですからね、半分あきらめていました。
そうしたら、私が避難した場所がたまたま発電機を起こしてテレビを点けたら、ウチの娘がテレビに写ったんですよ。瓦礫の中で助けを求めている姿でした。「ああ、これ助かったんだな」って、一応安心しました。
3日後に帰って来て、体が半分以上黒くなっていました。一晩海の中で瓦礫に揉まれたからね。体格が良かったから、今度ばかりは「お前スタイル云々じゃなくて、体格良くて良かったな」って、家族で笑い話にすることができました。
娘が低学年の頃は小学校にプールが無かったんです。だから、小さい頃はウチの前の川で泳ぎ、そうして海でも泳いで泳ぎを覚えました。高学年になって小学校にプールができたら、水泳大会で優勝したり記録を持っていたりしていたのが、今回幸いしたかなぁと思います。
家には婆さん(奥様)1人が残っていました。家の裏の山を崩れないように固めていたセメントの壁に、避難する時用に階段を作ってあったので、その階段を登って逃げたそうです。それで女房は助かりました。登って逃げて山の上から見ていたら自分の家がパーっと流されていくから、手でこう捕まえたくなったそうです。
上の娘は、もう1人の孫が専門学校の卒業式だったので、仙台に行っていました。その仙台からの帰りに地震と津波です。石巻から柳津(やないづ)の近くまで来て、そこで津波をかわすことができたんですが、もう少し早い時間に帰り始めていたら、途中で津波に呑まれていたんじゃないかと思います。タイミングが良かったと思います。おかげ様で、家族全員助かることができました。
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